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◇金婚の旅・㊤◇
~「心の故郷」は幼馴染の友垣~
元南京大学日語科教師・斎藤文男  ·   2020-11-05  ·  ソース:北京週報
タグ: 南京大学;故郷;中日交流
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◇「二十四の瞳」と共通する小学校時代◇

「二十四の瞳」の小説は1952(昭和27)年に発表された。「農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村」を舞台に、女学校師範科を卒業したばかりの大石久子先生(おなご先生)と、その年に入学した1年生12人の児童との師弟愛が前半で描かれている。物語は1928(昭和3)年から敗戦翌年の1946(昭和21)年までの18年間。大石先生は12人の児童へ温かい眼差しで接し、児童たちは大石先生を慕い、卒業してからも先生への思慕が募っていく。後半では教え子たちが、次々と戦争に巻き込まれていく過程を描き、作者の反戦への意志が強く表れている作品だ。私が小学校に入学したのは、大石先生が分教場に赴任した年から20年後だが、日本の敗戦で国は貧しく物資や食料が極端に不足し、時代背景は似たようなものだった。2018年5月に再販された岩波文庫の「二十四の瞳」を改めて読み、私たちの3年生から6年生の卒業まで4年間担任だった森田達夫先生と、大石先生の共通点が多い事に驚いた。大石先生は岬の分教場で初めての教壇に立って、12人の子供たちの出席をとった後、「今日はじめて集団生活につながった十二人の瞳は、それぞれの個性に輝いてことさら印象ぶかくうつり、この瞳をどうしてにごしてよいものか!」と決意する。

=写真=映画のロケで使われた教室に入り、教壇に立つと私の恩師や級友の顔が一人ひとり浮かんできた。

森田先生も、三年生の担任になって私たちと初めて会った時、「この子供たちに、持っている力を十分出し切れるようにしなければ……。」と強い責任感を持って、無我夢中で6年生まで4年間務めてきた、と卒業35年後に私たちが作った文集「ながれ」の中で述懐している。2人の先生に共通する熱血教育の原点だったのかもしれない。

◇思い出の母校が小豆島にあった◇

映画のロケで使われた岬の分教場は、私たちの小学校と同じ木造校舎で懐かしく、ノスタルジックな教室の教壇に立って、12人の児童たちが座った椅子や机を見ると、65年前の自分の教室にタイムスリップした。すると58人のクラス仲間の顔が一人ひとり教室に現れ、名前を呼んでいたら涙目になってしまった。木製の廊下を見ると、宿題を忘れたりいたずらをして廊下に立たされた往時のことが鮮明に浮かんで来る。小学校を卒業したのは66年も前のことだが、過去のことはいくら古くても思い起こせばいつも新鮮で、ついこの間のちょっと前の事のように感じる。

=写真=宿題を忘れたり、いたずらをして立たされた廊下とそっくりの板の目の廊下が、岬の分教場にもあった。

「岬の分教場」の教室で、自分の小学校時代を反芻していると、食糧や物資不足で貧しかった環境や、58人の大家族のように仲の良かったクラス仲間、そして森田先生の児童たちへの温かな思い遣りなど、映画の物語と共通する部分が多く、自分の「心の故郷」は幼馴染の友垣にあることを確信した。

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