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◇非典(SARS)について◇
~大学生の作文が訴えるもの~ |
元南京大学日語科教師・斎藤文男 · 2020-08-14 · ソース:北京週報 |
タグ: 南京大学;感染症;中日交流 | 印刷 |
今回の新型コロナウイルスは、世界中に感染が広がった。日本では全国に出されていた緊急事態宣言が、5月25日に解除されたが、7月に入り第2波感染の様相が濃くなり、新規感染者数が日々増えている。「このままでは、8月には目を覆いたくなる事態になるだろう。」と指摘する専門家もいる。
私は2003年に大流行したSARS(サーズ・中国語で非典・重症性呼吸器症候群)を、滞在していた中国・南京で経験した。当時、南京大学に勤務していた専家楼の外国人教師は、全員が帰国したが、私は同僚の中国人の先生方や、学生たちを残して帰ることは出来なかった。当時、私が担当している「日語写作」の授業で、「非典について」を作文の題に出した。
今回のコロナ禍を機に読み直してみたが、学生は斬新な感覚で貴重な経験として捉え、将来のコロナ禍を予想して、建設的な意見を書いているものもあった。以下にそれらを紹介したい。
◇
~恐ろしいのは「非典」の未知からくる不安~
今年の中国は「非典」でパニックになった。今はそれほど危険ではなくなったと言われるが、恐ろしさがまだ少し残っている。
多くの中国人にとっては、そういう強い伝染病を聞いたことはあるが、自分の生活している所で発生したことはない。恐ろしいのは「非典」そのものではなく、「非典」のことを知らないという点から生じた不安なのだ。AIDSはずっと恐ろしい病だが、その伝染方式と予防手段を知るからこそ、あまり恐ろしくなくなってきた。つまり、知らない世界が恐ろしいという意識なのだ。
人間は自然の前でどんなに微小なものであるか。宇宙は無限だが、我々の認識能力は限りがある。世界の物事の研究は、奥に進めば進むほど難しくなるし、人間としては未知のことが沢山あって、無力感も出てくる。例えば、この病の治療方法がわかると、また新しい病が出てくる。しかし、そのような循環さえあれば、人間は少しずつシンポしていける。だから、「非典」も自然が人間に対しての「試験」と言えるだろう。(IK)
~体験から得られた「全民団結」の精神~
まるで夢のように「非典」という悪魔がどんときて、またぐんと離れ去った。この「硝煙のない戦争」と称される事件から教えてもらったことは、深い恐ろしさだけでなく、他にもまだたくさんあるに違いない。「協力」というものもその一つだろう。
政府の「政策」、それに民間の「協力」。どちらが欠けてもいけない。医師たちと看護師の検査と治療は最も重要だったが、他の人たちの貢献も忘れてはいけないだろう。隔離用の部屋と食べ物などの提供、それに警察の秩序維持、子供たちやお年寄りまで全国民が一致団結して、この悪魔と闘った。
その結果、今は次第に平静になってきたが、この非常に特殊な時期からもう一度「全民団結」という言葉が人々の中に根差してきた。さらに、生活環境の清潔保持、市民みんなが協力して助け合う必要性などを学んだことは、今回の「非典」から得た教訓と言えるだろう。
これらは、今回の非常に特殊な体験を通じて得られた、私たちの「精神的な財産」だと、私は思う。「感染しなくて良かった。」と安心するだけでなく、この財産が得られたことを大切にしたい。(KI)
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