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人との出会いに彩られた中国との20年 大学日本語教師・佐藤芳之さん
本誌記者 金知暁  ·   2018-10-16
タグ: 改革開放;教育;中日交流
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忘れられない出会い

最初に中国に来た時、外国人はまだ珍しい存在だった。寝台列車で旅行に行った際には、外国人だとわかるといつも中国の人にタバコを勧められ、その一本から会話が始まり、様々なことを教えてもらったという。しかし、何年かが経った後、「たとえ外国人であることが分かっても、向こうはあまり干渉して来なくなった。周りに外国人が増え、珍しくなくなったからだと思う。でも日本語が分かる人が増えてきたので、日本語で話しかけられることも増えた。外国人との壁が低くなった」と佐藤さんは語った。 

佐藤さんは中国で多くの人と出会い、大切な絆を結んできた。なかでも、とくに博士課程時代の指導教官が忘れられないそうだ。その先生の最後の弟子として、佐藤さんは自宅によく招かれたという。「先生は決して見下すことなく、一対一で、一つひとつ丁寧に教えてくれた。うれしかった。光栄さを感じながら、自分の能力の至らなさも痛感した。先生の学問に対する姿勢、先生の背中を見て、『僕もやらなければならない』と思った。これからも前向きに頑張っていく」。その先生との交流を思い出すと、佐藤さんは今でも感謝の気持ちでいっぱいになるという。 

しかし、一番大切な人について聞いてみると、佐藤さんはある女性の名前を挙げた。彼女は1998年9月、佐藤さんが北京語言学院に来た翌月に知り合った日本語学科の学生であり、その後結婚した女性である。「中国での20年を振り返ると、節目節目のところに、常に彼女がいて、僕の大きな支えとなった」と佐藤さんは言う。さらに佐藤さんを感動させたことがある。結婚相手の女性は東北地方出身。かつて日本が中国の東北地方を侵略したことがあるため、佐藤さんは日本人である自分と東北地方出身者との結婚は困難であると考えていた。ところが、その予想はいい意味で外れた。「東北地方の方には、いわゆる日本の過去の歴史に対する複雑な気持ちがある。それは僕も知っているし、向こうはさらにあるはずなのに、彼女のご両親は結婚に少しも反対せず、認めてくれた。そして温かく迎えてくれた」と佐藤さんは感慨深げに語った。 

「最初は留学の目的で中国に来て、『留学の目的が達成できたら日本に帰る』、『博士課程を修了したら日本で就職する』という考え方だった。当初は、まさかこんなに長きにわたって中国にいるとは思わなかった。でもいろんな人に出会った。いろんな人に支えられて今がある」と佐藤さんは言う。これは中国に住んでいる外国人の誰もが心に思うことだろう。

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