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「中国は南中国海における中国とフィリピンの紛争の話し合いによる解決を堅持する」白書(全文)
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· 2016-07-13 |
タグ: 南中国海;白書;政治 | 印刷 |
(二)中国はあくまでも南中国海における領土主権と海洋権益を断固守る
23、南中国海諸島に対する中国の主権は20世紀までいかなる挑戦も受けなかった。20世紀の30年代から40年代まで、フランスと日本は前後して武力で中国の南沙諸島の一部の島嶼・礁を不法に侵略し占領した。それに対し、中国人民は奮い立って抵抗し、当時、中国政府も一連の措置をとり、南沙諸島に対する主権を守った。
24、1933年、フランスは南沙諸島の一部の島嶼・礁に侵入し、官報で「占領した」と宣言し、「9つの小島事件」を起こした。それは中国の各地各界の強烈な反響を引き起こし、みんなでいっせいに抗議し、フランスの侵略行為に対する非難の声が続々と上がった。南沙諸島に居住していた中国漁民も現地で抵抗し、符洪光、柯家裕、鄭蘭錠らは太平島、北子島、南威島、中業島などの島でフランスの国旗を掲げている旗竿を切り倒した。
25、「9つの小島事件」が発生した後、中国外交部のスポークスマンは、南沙諸島の関係島嶼には「わが国の漁民だけが居住し、国際的にも中国の領土だと認められている」と表明し、フランスが9つの小島に侵入したことに対して中国政府は厳重に抗議した。同時に、広東省政府はフランスが中国漁民を惑わしだまし、フランス国旗を掲げさせたことに対して、各県の県長に布告を出すように命令し、南沙諸島および関係海域で作業する中国漁船が外国の国旗を掲げることを禁止し、また漁民に中国国旗を配り、掲げるよう要求した。
26、外交部、内政部と海軍部などの部門によって構成された水陸地図審査委員会は、中国の南中国海諸島の各島嶼、礁、灘、沙の名称を特に審査して決定し、また1935年に『中国南中国海各島嶼図』を編纂・出版し、公布した。
27、日本は中国侵略戦争の期間、かつて中国の南中国海諸島を不法に侵略し占領したことがある。中国人民は日本の侵略に対して勇敢に抵抗した。世界反ファシズム戦争と中国人民抗日戦争が推進され、中米英の三カ国は1943年12月に『カイロ宣言』を発表し、日本は盗み取った中国の領土を中国に返還しなければならないと厳粛に言い渡した。1945年7月、中米英の三カ国は『ポツダム宣言』を発表し、そのうちの第8条で「『カイロ宣言』の条件は必ず実施されなければならない」と明確に規定した。
28、1945年8月、日本は『ポツダム宣言』の無条件降伏を受け入れると宣言した。1946年11月から12月まで、中国政府は林遵大佐らの軍隊と政府の高官を派遣し、「永興」「中建」「太平」「中業」の4隻の軍艦に乗って、それぞれ西沙諸島と南沙諸島へ赴き、儀式を行い、改めて主権碑を立て、軍隊を派遣し駐屯守備させた。その後、中国政府は以上の4隻の軍艦名を用いて西沙諸島と南沙諸島の4つの島嶼に対して新たに命名した。
29、1947年3月、中国政府は太平島に南沙諸島管理処を設け、広東省の管轄下に置いた。中国はまた太平島で気象台とラジオ放送局を設置し、6月から対外的に気象情報を放送し始めた。
30、南中国海諸島に対して新たに地理測量と地図作製を行った上で、中国政府は1947年に『南中国海諸島地理誌略』を編纂し、『南中国海諸島新旧名称対照表』を審査して決め、南中国海断続線を標記した『南中国海諸島位置図』を制作した。1948年2月、中国政府は『南中国海諸島位置図』を含む『中華民国行政区域図』を公布した。
31、1949年6月、中国政府は『海南特区行政長官公署組織条例』を公布し、「海南島、東沙諸島、西沙諸島、中沙諸島、南沙諸島およびその他の付属島嶼」を海南特区に組み入れた。
32、中華人民共和国が1949年10月1日に成立した後、何度も重ねて主権を表明し、また立法、行政区画の設置と統治、外交交渉などの措置を講じて南中国海諸島に対する主権と南中国海における関係権益をよりいっそう擁護した。中国の南中国海諸島および関係海域に対するパトロール・法執行、資源開発と科学調査などの活動は一度も中断したことがない。
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