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「中国は南中国海における中国とフィリピンの紛争の話し合いによる解決を堅持する」白書(全文)
  ·   2016-07-13
タグ: 南中国海;白書;政治
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11、中国の漁民は南中国海を開発・利用した歴史的過程において、かなり固定化された南中国海諸島に対する命名体系を形作った。例えば、島嶼と砂洲を「峙」と称し、礁を「鏟」「線」「沙」と称し、環礁を「匡」「圏」「塘」と称し、暗沙(サンゴ島)を「沙排」などと称している。明・清時代に作成された『更路簿』は中国漁民が中国の大陸沿海地域と南中国海諸島の間を往来する航海案内書であり、多種の写本が伝わり、現在でも使用されており、中国人民の南中国海諸島における生活と生産・開発の活動を記録し、中国漁民による南中国海諸島に対する命名を記載している。そのうち、南沙諸島の島、礁、灘、沙に対する命名は少なくとも70余カ所に達していて、羅針盤の方位名によって命名されているものがあり、例えば「丑未」(渚碧礁)、「東頭乙辛」(蓬勃暗沙)がそれである。その特産物によって命名された名称もあり、例えば「赤瓜線」(赤瓜礁)、「墨瓜線」(南屏礁)がそれである。また島嶼・礁の形状により命名されたものである「鳥串」(仙蛾礁)、「双担」(信義礁)、ある種の実物によって命名した「鍋蓋峙」(安波沙洲)、「秤鈎峙」(景宏島)、水道によって命名された「六門沙」(六門礁)などもある。

12、南中国海諸島に対する中国人民の命名の一部は、西洋の航海者に引用され、また19~20世紀の権威ある航海案内書と海図に表記されている。例えばNamyit(鴻庥島)、Sin Cowe(景宏島)、Subi(渚碧礁)は海南方言の発音の「南乙」「秤鈎」と「丑未」に由来するものである。

13、数多くの歴史的文献と文物資料が証明しているように、中国人民は南中国海諸島および関係海域に対して絶え間ない開発と利用を行ってきた。明・清時代以来、中国の漁民は毎年北東の季節風を利用して南下し、南沙諸島海域で漁業生産活動に従事し、翌年には南西の季節風を利用して大陸に引き返す。また一部の中国漁民は一年中、島に留まり、漁獲を行い、井戸を掘って水を汲み、開墾して作付けを行い、住居を構え廟を建て、家禽や家畜を飼育するようになった。国内外の史料の記載と考古学の発見によると、南沙諸島の一部の島嶼・礁上にはかつて中国漁民が残した農作物、井戸、家屋、廟宇、お墓と石碑などがあった。

14、数多くの外国文献には長期にわたって中国人だけが南沙諸島で生産し生活していた事実が記録されている。

15、1868年に出版された英国海軍作成の『中国海水路誌』は、南沙の鄭和群礁について言及した際、「海南の漁民は、ナマコ、貝類を捕って生計を立てており、各島には全て彼らの足跡が残り、また島嶼・礁に住み着いている者もいる」、「太平島の漁民は他の島の漁民より生活がより快適で、太平島の井戸水は他の島より水質が良い」と記載している。1906年に出版された『中国海水路誌』および1912年、1923年、1937年などの各版の『中国航海誌』には多くの箇所で中国漁民が南沙諸島で生産・生活していることを記載している。

16、1933年9月にフランスで出版された雑誌『彩色植民地世界』は次のように記している。南沙諸島の9つの島には中国人(海南人)だけが住んでいて、中国人以外に他国の人はいない。当時、西南島(南子島)には計7人の住民がいて、そのうち子供は2人。帝都島(中業島)には計5人の住民がいる。スプラトリー島(南威島)には計4人の住民がおり、1930年の時よりも1人増えている。ロアイタ島(南鑰島)には中国人が残した神座、茅屋、井戸があり、イツアバ島(太平島)には人跡がなかったが、中国文字のあるの碑があり、その大意は食糧をここに運んできたが、人が見つからなかったため、それをブリキ(フランス語原文は石となっている)の下に置いた。その他の各島でも、至る所で漁民が居住した形跡がある。この雑誌はまた、太平島、中業島、南威島などの島嶼は植生が繁茂し、飲用できる井戸があり、椰子の木、バナナの木、パパイヤの木、パイナップル、パクチョイ、ジャガイモなどが植えられていて、家禽を飼育し、人が住むのに適している、と記載している。

17、1940年に出版された日本の文献『暴風の島』や1925年に米国海軍水路測量局が発行した『アジア水域航行案内』(第4巻)なども南沙諸島での中国漁民の生産・生活の状況を記載している。

18、中国は南中国海諸島および関係の海上活動を最も早くから始め、継続して管理している国である。歴史上、中国は行政区画の設置と統治、水軍巡視、資源開発、天文測量、地理調査などの手段を通じて、南中国海諸島と関係海域に対して継続的、平和的、実効的な管轄を行ってきた。

19、例えば、宋代、中国は広東・広西地区に経略安撫使を設け、中国の南部国境を統治した。宋代の曾公亮は『武経総要』の中で中国が南中国海の海防を強化するために、海洋をパトロールする水軍を設立し、南中国海を巡視したことに言及している。清代の明誼が編纂した『瓊州府誌』、鐘元棣が編纂した『崖州誌』などの著作はすべて「石塘」「長沙」を「海防」の条項に組み入れている。

20、『広東通誌』『瓊州府誌』『万州誌』など中国の政府が編纂した多くの地方誌には、「彊域」あるいは「輿地山川」という条項の中に「万州に千里長沙、万里石塘有り」、あるいは類似の記載がある。

21、中国の歴代政府はまた政府発行の地図上において南中国海諸島を中国の領土として標示している。1755年の『皇清各直省分図』の『天下総輿図』、1767年の『大清万年一統天下図』、1810年の『大清万年一統地理全図』、1817年の『大清一統天下全図』などの地図はいずれも南中国海諸島を中国の版図に組み入れている。

22、歴史の事実が表明しているように、中国人民はずっと、南中国海諸島と関係海域を生産と生活の場所とし、各種の開発・利用活動に従事してきている。中国の歴代政府も南中国海諸島に対して継続的、平和的、実効的な管轄を実施している。長い歴史の過程において、中国は南中国海諸島に対する主権と南中国海における関係権益を確立し、中国人民は早くから南中国海諸島の主(ぬし)となっていた。

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