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◇金婚の旅・㊦◇
~恩師を慕いミニクラス会や墓参クラス会~
元南京大学日語科教師・斎藤文男  ·   2020-11-05  ·  ソース:北京週報
タグ: 南京大学;学校;中日交流
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◇卒業式当日に見た先生の大粒の涙◇

1954(昭和29)年3月、小学校の卒業式が終わった後、私は忘れ物をして学校に戻った。森田先生は校舎正門の入り口で大粒の涙を流しながら、教え子が立ち去った後姿を見ながら仁王立ちになっていた。私は見てはいけない場面に立たされたようで、先生の泣いた理由も分からず、そのまま家路に向かった。小学校時代に書いた作文や、その後開いたクラス会の話し合いなどをまとめ、卒業35年後に作った文集「ながれ」の中で、森田先生は卒業式前後のことを次のように書いている。

《卒業間近の昭和29年3月、鉄道官舎のあるお宅へお邪魔した時、お父さんから「すぐ卒業ですね。淋しいでしょうね。」といわれたとたん、胸が一杯になり、涙がぽろぽろこぼれたことが、昨日のように思いだされます。……卒業式が終わり家へ帰っても、涙が出て仕方がなかったこと。2~3日間、家族に涙を隠すのに苦労したことなどが脳裏をかすめます。》

=写真=6年間ともに遊び学んだクラス仲間の卒業記念(1954年3月9日写す)3列目の左から4人目が筆者。前列中央右側が担任の森田達夫先生、左側は清水四郎校長。

純真で天真爛漫な子供たちと4年間、毎日顔を合わせていた教え子たちと、この日限りで会えなくなることに耐えられなかったのだろう。私は卒業式の日の先生の涙を、66年後の今も忘れず鮮明に覚えている。それは6年生の時、3クラス全員で観に行った壺井栄原作の小説で、木下恵介監督の映画「二十四の瞳」のワンシーンのように、脳裏に焼き付いて忘れることが出来ないからだ。

◇「卒後還暦」や「喜寿」のクラス会◇

小学校時代の思い出は、クラス会で級友と当時の話をしているうちに、自分でも忘れていた事柄のあれこれが鮮明に蘇ってくる。

2015年10月に開かれたクラス会は、卒業後60年が過ぎたので「卒後還暦クラス会」となった。学校にお願いして母校の教室を拝借し、16人が懐かしい教室に集い開かれた。

=写真=木造校舎だった母校も鉄筋コンクリート3階建てとなった。懐かしの母校で「卒後還暦クラス会」(前列右端が筆写)2015年10月24日写す

この時のクラス会では、卒業して60年後に初めて会う級友もいた。「小学校を卒業してから60年が過ぎまして、みなさんとお会いするのは今回が初めてですが、私と同様それなりの年齢は重ねていますが、面影はどこかに残っているものですねえ。これからの人生はみなさんと共有していきたいと思います。」と懐かしそうに話していた。小学校1年生から6年間、一度もクラス替えがなく、共に学び共に遊んだ幼馴染は、60年後に再会してもすぐに「やあ、△△じゃぁないか。」と男性はあだ名で、女性は「〇〇ちゃん。」と下の名前で呼び合う。3年後の2018年10月には、年齢が77歳となり「喜寿クラス会」と名付けた。私たちが1年生に入学した時は、男子23人、女子24人の計47人。卒業した1954年3月には、男子33人、女子25人の計58人となり11人も増えていた。現在の小学校クラス人数の3倍ほどになる。当時は日本の人口が増え続け、1945年に約7200万人だったのが、1967年には1億人を超えていた。昨今は少子化により母校は廃校になっているが、校舎は残っていた。

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