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◇金婚の旅・㊥◇
~貧しくひもじかったが楽しい学校生活~ |
元南京大学日語科教師・斎藤文男 · 2020-11-05 · ソース:北京週報 |
タグ: 南京大学;学校;中日交流 | ![]() 印刷 |
◇疎開先から戻り1カ月後に小学校入学◇
私が東京・北区立の清水小学校に入学したのは1948(昭和23)年。日本の敗戦3年後で、極端な食糧難や物資不足の不安定な社会だった。入学1カ月ほど前に、3歳から4年間過ごした疎開先の山形県から赤羽に戻った。言葉は東北地方のズーズー弁で、通信簿には「言葉になまりがある」と、毎年注意書きがあった。田舎の山や川を遊び場にしていたいたずら坊主が、急に都内の小学校に入って初めての集団生活となり、緊張の日々が続いた。担任は関玉枝先生という若い“おなご先生”で、いつもニコニコしていた。
=写真=緊張した表情の清水学校入学式の“96の瞳”。中央右側の関玉枝先生も緊張からか目をつぶっている=前列2列目左からら4人目が筆者(円内は後列左端)=1948年4月5日写す
4月5日に撮った入学式の記念写真で私は、恥ずかしかったのか隣の女の子のそばに隠れるようにして映っている。他の級友たちも緊張しているのか、笑顔は1人もいない。何しろカメラなど見たこともなく、写真を撮られることもめったになかった。「何をするのだろう?」と、不思議そうな表情で眉間にしわを寄せている人が多く、初めての集団生活への不安が入りまじったあどけない顔が並んでいる。
左胸には白い布に平仮名で書かれた名前が付けられていた。右胸に付けている児童もいるが、各家庭にはこの白い布すら満足になく、我が家では何かの半端布を利用して作ったように記憶している。関先生も両手を膝に乗せ、緊張しているのか太陽がまぶしかったのか、目を瞑っていた。
服装もバラバラで、中にはモンペスタイルの女の子もいる。履物は男女ともに下駄ばきが多く、靴を履いているのは少しゆとりのある数人だけだ。戦後3年目は物不足の世相を正直に反映していた。
入学式は2人目の妹が生まれる2カ月ほど前だったので、私は父親に連れられて学校に行った。帰りには学校近くで売られていた、ウサギの赤ちゃんとニワトリのヒヨコを買ってもらった。この新しい仲間のエサやりは私の仕事となり、その後生き物を飼うのが好きになった。
=写真=入学から1カ月後、学校から3キロ離れた荒川に徒歩で遠足に。 緊張もなくなり笑顔は、関先生(円内は前列右端が筆者)と円内前列右端のひっしゃと左端の2にんだけ
入学式は2人目の妹が生まれる2カ月ほど前だったので、私は父親に連れられて学校に行った。帰りには学校近くで売られていた、ウサギの赤ちゃんとニワトリのヒヨコを買ってもらった。この新しい仲間のエサやりは私の仕事となり、その後生き物を飼うのが好きになった。
入学記念の写真では全員が緊張の表情だったが、1カ月後、学校から3㌔ほど離れた荒川に徒歩で遠足に行った時、私は満面の笑顔で写真に納まっている。クラスメイトのほとんどはやはり緊張した面持ちで、笑顔は私を含めた2人と担任の関先生(最後列左から3人目)だけ。私は生来のんき者で環境に慣れやすい性格だったのかも知れない。
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