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中国音楽業界の変化を見つめてきた日本人レコーディング・エンジニア 粟野敬三さん
本誌記者 勝又あや子  ·   2018-07-31
タグ: 改革開放;音楽;中日交流
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レコーディングスタジオで作業する粟野敬三さん (粟野敬三さん提供) 

ポップス全盛時代の到来と音楽産業のチェーン化 

粟野さんが中国に来た当初、レコーディングで関わる音楽はほとんどロックだった。しかし2000年前後から徐々にポップスの仕事が増えていく。粟野さんがアルバム制作に関わったポップスのアーティストには、陳琳、楊坤、李宇春、吉克隽逸(Summer)など、人気歌手が名を連ねる。最近では、実力派女性シンガー黄綺珊のアルバムを手がけた。じっくりと時間をかけて取り組む粟野さんの音作りに対する評価は高く、アーティストから直接名指しで仕事が舞い込む。その半面、顧客の要求も高い。「僕にオファーがくる人はこだわる人が多い。パパッと自分たちでできるようなのはあまり来ないんですよ。でも楽しいんで、それ。そういう人を満足させたい」。にこやかな笑みの裏に、プロの矜持がのぞいた。 

今、仕事の中心はポップスだ。粟野さんの仕事内容の変化は、中国の音楽シーンでポップスが隆盛していく過程と重なっている。そしてそれは、中国の音楽産業規模が拡大し、ビッグビジネスとして成り立つようになっていく過程でもあった。粟野さんは言う。「『超級女声』とか『中国好声音』、『我是歌手』といった番組の影響はすごく大きいですね。『超級女声』くらいからちょっと産業的になってきたというか、ビジネスとして大きく変わってきた転換期だったと思います。大きいお金が動くようになってきた」。2004年から始まった女性シンガーのオーディション番組『超級女声』を皮切りに、同じくオーディション番組の『中国好声音』、すでにデビューしている歌手が歌唱力を競う『我是歌手』といった音楽番組が人気を呼び、そこから数多くの人気歌手が生まれ、音楽をめぐる一大産業チェーンが出来上がっていった。コンサートも増え、チケットも高額化した。また、ストロベリー・ミュージック・フェスティバルやMIDIロック・フェスティバルなど、多くの観客を動員する大型野外音楽フェスティバルも定着。以前は小さなライブハウスでしか演奏機会がなかったロックやパンクのアーティストも、メジャーシーンで活躍するようになっていった。 

中国の実力派女性シンガー黄綺珊(左)と粟野敬三さん(右)。(粟野敬三さん提供) 

中国でできることが日本でできない 

音楽制作の技術も大きく変化した。2000年頃から、以前ならスタジオに行かないとできなかった作業がコンピューターでできるようになり、自宅で作業を行うことが可能になった。粟野さんによれば、アーティスト自身もスタジオに行かずに自宅で歌を録音するケースが増えているという。 

サウンドのチェック方法も変わった。携帯電話で音楽を聞く人が増えたため、携帯電話できちんと音が聞こえるかをチェックすることが重要になった。サウンドを作る際にはもちろんスピーカーで確認するが、携帯電話で音楽を楽しむ人のことを考慮し、最終的に携帯電話でも鑑賞に堪える音作りをする必要が生じたのだ。 

アーティストとのやりとりも大きく様変わりした。仕事の依頼から打ち合わせ、楽曲データのやりとり、ひいてはギャラの支払いまで、すべてインスタントメッセンジャーアプリの「微信(ウィーチャット)」を使って行うことも多い。「下手をすると、会ったこともない、顔を見たこともない人と仕事をすることもあります。いろいろ変わりましたね。以前は、日本でできることが中国でできない、ということが多かったんですけど、今は逆。もう確実に日本を超えている」と粟野さんは感慨深げだ。今や、「中国でできることが日本でできない」と感じることも多いという。

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