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中国音楽業界の変化を見つめてきた日本人レコーディング・エンジニア 粟野敬三さん
本誌記者 勝又あや子  ·   2018-07-31
タグ: 改革開放;音楽;中日交流
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黒豹、唐朝、輪回、零点楽隊、鄭鈞、胡彦斌、果味VC、布衣楽隊、陳琳、楊坤、李宇春、黄綺珊、吉克隽逸(Summer)……中国の音楽界で、錚々たるミュージシャンたちと仕事をしてきた日本人がいる。レコーディング・エンジニアとして北京で活躍する粟野敬三さんだ。妥協を許さない丁寧な仕事ぶりに対する評価は高く、楽曲制作時に粟野さんを名指しするミュージシャンも多い。中国のロック草創期、ポップスの興隆、音楽産業チェーン化……中国音楽界の変化を現場で見つめてきた粟野さんに話を聞いた。

北京で活躍するレコーディング・エンジニアの粟野敬三さん (勝又あや子撮影) 

中国ロックにビートルズを見た! 

粟野敬三さん(47歳)の肩書きはレコーディング・エンジニア。粟野さん本人の説明によれば、レコーディング・エンジニアの仕事は「まずマイクを立てて、歌や楽器を録音する。そしてそれをまとめる作業がミキシング。その二つが軸ですね」。 

粟野さんと中国の関わりは1997年に始まる。当時所属していたレコード会社のビクターが中国にレーベルを持っていた関係で、日本からレコーディング・エンジニアとして長期出張で派遣された。その年は奇しくも香港復帰(香港返還)の年。『7月1日生まれ』という香港復帰記念アルバムの制作が目的だった。『7月1日生まれ』は大陸部と香港地区のアーティストが参加したロック・コンピレーションアルバム。黒豹や唐朝など中国ロック草創期のビッグネームが参加した。 

粟野さんはそれまで中国と一切関わりのない人生を送ってきた。ところが、長期出張で中国のミュージシャンと仕事をするうちに「思いっきり中国にはまって」しまい、99年から本格的に拠点を北京に移す。当時、中国では音楽産業の基盤がまだしっかりしていなかった。レコーディングができるスタジオもテレビ局やラジオ局などにしかなく、そのスタジオも満足に録音ができる条件が整っていないことが多かった。「音が出ないとか、マイクが自由に使えないとかで、まず音が出せるようにするところからスタートすることもありました」と粟野さんは言う。レコーディング・エンジニアとしてさぞ苦労したと思いきや、粟野さんはかえって魅力を感じていったという。「大変でしたけど、なんかこう、楽しい、わくわくする感じというか。ちょっと学生の頃に戻ったような。ミュージシャンもちょうどロック草創期というか、アルバム制作に関してはみんな経験もなくて。ライブはもうバリバリやっていたんですけど、何か作りたい!でも機材はあんまり揃ってない!みたいな状況の中で、知恵を絞って作っていく。昔本で読んだ、ビートルズが何もないところで頑張って作っていた頃のようなわくわく感が味わえた」。粟野さんは熱のこもった口調で当時を振り返った。その頃レコーディングに関わったミュージシャンには、黒豹や唐朝、零点楽隊など、ロック草創期の大御所が名を連ねる。

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