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◇「鑑真和尚に恩返しをしたい」㊤◇
~清水安三先生の訪中目的に感動~ |
斎藤文男(元・南京大学日本語学部専家) · 2017-07-24 |
タグ: 鑑真;清水安三;中日交流 | ![]() 印刷 |
◇美穂夫人、遺言で学園の土に還る◇
崇貞女子工読学校はその後、「崇貞学園」と改称され、創立18年後の1939年には小学部6クラス、213人、中学部3クラス、55人となり、3つの新校舎、体育館、図書館なども落成し、学校としての体裁も整ってきた。43年には日本総領事館の認可を得て日本人高等女学校を併設するまでになった。生徒は中国人のほか朝鮮人、日本人らわけ隔てなく受け入れ、成績優秀な人は日本の大学に留学し、卒業後は学園の教師として採用された。
同志社女学校専門学部家政科卒業時の横田美穂さん(1918年)=清水安三記念館所蔵
崇貞学園は生徒数や校舎なども順調に増えていったが、夫人の美穂先生は積年の無理がたたり、33年12月19日病で亡くなった。亡くなる直前、「私の骨は中国に持って帰って、学園の土にしてください」と遺言した。安三先生は翌年、約束どおり崇貞学園の校庭の隅に美穂先生の骨を埋め、学園の土に還してやった。遺骨が埋められた所に小さな大理石の碑には次のような文字が彫られている。
「清水美穂一生不求自己之安逸 供其全身三分之一於学校 三分之一為丈夫 三分之一為児女 其一生未着珍貴衣履 所用之物皆係友朋所贈之舊者 不幸早歿臨終時 嘱日将我白骨帯往中国葬埋 此為我対於中国最後之供献」
(筆者訳:清水美穂の一生は、自己の安楽を求めず、その三分の一を崇貞学園に、三分の一を夫のために、三分の一を子女のために捧げた。身なりは美しいものをまとわず、すべてはみな友達がゆずってくれた古いものだった。不幸にして早くに亡くなったが、臨終に際し「私の遺骨は中国に埋葬してください。それは私が中国に対して捧げることができる最後のことですから」と遺言した)
「まだ死なねばならぬ年齢ではない38歳(満37歳)の女盛り。崇貞学園はこれからという時に、彼女はこの世を去ったのである。何一つうまいものをも食べず、何一つ美しいものをまとわず、崇貞学園の庭の木々が、まだ花も咲かず、実を結ばないうちに彼女はこの世を去った」。
「北京週報日本語版」2017年7月24日
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