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「これから中国はすごくなる!」34年前の一言が変えた人生 生畑目高広さん
本誌記者 勝又あや子  ·   2018-07-06
タグ: 改革開放;青年交流;社会
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生畑目高広さん(51歳)は総合商社の三井物産で長く食品貿易に携わり、北京駐在員として2度にわたって中国に滞在し、日中間の貿易業務に従事した。現在は独立して貿易会社を経営。貿易業務のほか、通訳や中日青年交流の担い手としても活躍している。高校時代に中国に興味を持ち始めてから34年。生畑目さんの傍らにはいつも中国があった。

生畑目高広さん(勝又あや子撮影)

「これから中国はすごくなる!」

生畑目さんと中国との出会いは高校2年の頃に遡る。時は1984年。1978年に中国が改革開放へと大きく舵を切ってから6年が経っていた。その年、生畑目さんが通っていた高校の同級生が中国に行った。日本の事業団体の一員として四川省を視察した父親に同行したのだ。帰国後、その同級生はこう言った。「これから中国はすごくなる!」この言葉が、生畑目さんの人生を決定づけることになった。

「もともと漢文や中国系の詩文などになんとなく惹かれていて、親しみはありました。確かに中国は大きい国だし、言葉をやりたいっていうのもなんとなくあって。世界で仕事をしたいということも考えていて、そこに『中国、中国』と言い始めた人が出てきたので、たぶん影響されたのだと思います」と生畑目さんは当時を振り返る。大学受験では東京外国語大学の中国語学科を受け、見事合格した。

86年、生畑目さんは東京外国語大学に進学し、中国語を学び始めた。中国を初めて訪れたのは87年、大学2年の夏休みだ。香港でビザを申請して深圳へ。そこから広州、蘭州、西安、ウルムチ、天池、北京、上海を回り、上海から船で香港に戻った。「香港から深圳に入ったとたんに、とんでもないところに来たな……と感じました。後から思うと改革開放が始まって、いろいろと工業団地などを作っていたと思うけれど、まだ田舎な雰囲気だった」と生畑目さんは話す。当時は、改革開放の先端を行っていた深圳ですら、一旅行者がその発展を感じるには至らなかったようだ。

外国人もまだ珍しい存在だった。多くの中国の人々にとって生畑目さんはおそらく初めて出会う外国人だったのだろう。「まだ外人慣れもしていない感じでした。汽車の中でも、『ここに日本人がいるぞ!』と言われ、鈴なりの人。『北国の春』を何回も歌わされました。『車を運転できるか』と聞かれて『できる』と答えると、『おおー!』とどよめいたりしましたよ」。その一方で、生畑目さんに強い印象を残したのは、中国の人々の親切さと人懐こさだった。「汽車の中で食べ物をいろいろくれたし、(横になれそうな場所を教えてくれて)『ここで寝ろ』と言われたりもしました。よく言われたのは、『俺は次の駅で下りるからお前も一緒に下りて家に泊まれ』。結局泊まりませんでしたけどね」と生畑目さんは笑う。

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