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長野から世界へ、平和の尊さを発信する小さな記念館
本誌記者 陳煒  ·   2017-07-27  ·  ソース:
タグ: 残留孤児;長野県;社会
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人類戦争史上稀に見る悲劇

「満蒙開拓」とは何であったのか。歴史を遡ると、「満蒙開拓団」は1930~40年代、日本の中国侵略戦争期間に生まれた植民組織だということがわかる。史料によると、1931年の「九一八」事変(満州事変)後、日本は公然と植民侵略と掠奪を行うようになった。東北部の軍事占領を揺るぎないものにするため、日本は中国東北部への組織的、計画的な大規模移民を開始した。1936年8月、広田弘毅内閣は20年間で中国東北部に100万戸、500万人を移民させるという百万移民計画を正式に日本政府の7大「国策」の一つとした。中国東北部の人口構成を変え、東北部を永久に日本の領土とすることが大きな目的だった。1932年からの13年間に、日本各地から約27万人が中国東北部に送り込まれ、中国人農民の家や畑を安く買収し、強制的に立ち退かせるなど、中国の人々に多くの苦難を強いることとなった。

しかし、「幻の国」は長く続かなかった。1945年8月9日、旧ソ連軍は日本の関東軍支配下にあった中国東北部に侵攻し、「開拓団」の悪夢が始まった。旧ソ連軍の打撃のもと、日本軍は敗退し、南下する。優先的に撤退できたのは日本軍の士官・兵士とその家族で、数十万の「開拓団」は取り残されてしまった。旧ソ連軍侵攻時、関東軍の兵力補充のため「開拓団」の青壮年男性のほとんどは徴兵されており、「開拓団」に残っていたのは女性、子ども、老人だけであった。守ってくれるはずの軍隊もない「開拓団員」の悲惨な逃避行、さらには集団自決。「開拓団」は多くの犠牲を出した。

「この時、置き去りにされて拾われたり、死なせるよりはと中国人に預けられたりする中で、いわゆる残留孤児・婦人が生まれ、その苦難は戦後も長く続くところとなった」。寺沢副館長は当時の状況を次のように語った。

「劣悪な生活環境と酷寒の中で多くの犠牲者を出し、私の長兄もここで流行病により僅か一歳の幼い命を落としている。軍関係者や『開拓団』以外の民間人などの一部は終戦と同時に帰国を果たしたが、『開拓団』のほとんどは現地で越冬せざるを得なかった。この越冬時に栄養失調や流行病などで亡くなった人の方が旧ソ連軍侵攻時の犠牲者数よりも遥かに多い」。

「満州開拓団」は日本の中国侵略の罪証のきわめて重要な一部だが、同時に人類戦争史上稀に見る悲劇でもあったのだ。

当時の「開拓団」の住居を再現(陳煒撮影)
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