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長野県の「満蒙開拓平和記念館」 上海民間交流団が初訪問
  ·   2019-05-22  ·  ソース:北京週報
タグ: 長野県;上海;中日交流
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長野県というと、中国の人々はどのような印象を抱くだろうか? 改革開放後、中国の人々は日本のヒットソング『北国の春』、映画『ああ野麦峠』や『君よ 怒の河を渉れ『破戒』を通じて、長野県を多少なりとも理解してきた。その長野県飯田市阿智村に日本の各界からの援助によって建てられた「満蒙開拓平和記念館」は、5月中旬に初となる上海の民間団体20名(団長は兪彭年さん)の訪問を受けた。 

 

上海の民間団体の皆さん

この記念館の展示品は70数年前の「開拓団」の史実を反映したものだ。統計によれば、戦前に中国の東北部へ渡った日本の農民は総勢27万人を数え、その中で長野県の農民は3万3000人以上にも及ぶ。当時、日本が中国の東北地方に「移民」を送り込んだ目的はいくつかある。まず、アメリカの経済危機の影響で引き起こされた輸出企業の失業問題と、人口過多という農村の問題を解決することだ。つぎに、日本人「移民」を増やすことにより、中国の東北地方における日本人の人口を一定比率まで高め、最終的には中国の東北地方を日本の「本土」の一部に変えてしまうことだ。さらに、「開拓団」を「人質」として利用し、旧ソ連の進攻を防ぐことなどが挙げられる。

日本の敗戦後、「開拓団」の人々のうち、老人や病弱な者、障害者、婦人、子供ばかりが置き去りにされ、敗戦後すぐ日本に帰国できなかった「開拓団」の人々の中には、飢えと寒さで亡くなった人もいれば、残留孤児となった人もいた。 

「満蒙開拓平和記念館」館長の寺沢秀文さん

飯田日中友好協会の清水可晴会長は歓迎の辞を述べ、上海民間交流団を温かく迎えた。副会長兼記念館館長の寺沢秀文さんの両親はともに「開拓団」の団員で、寺沢さんの兄は1歳の時に中国吉林省で亡くなっている。当時のことを振り返り、寺沢さんは史実をありのままに伝え、未来を担う日本の次の世代に戦争の悲惨さと平和の尊さをより深く理解してもらうことの必要性を痛感している。

上海民間訪問団の団長を務める兪さんは挨拶の中で、「私たちの今回の訪問は理解を深め、歴史を鏡として未来を開くためのものです」と語った。

飯田市の牧野光朗市長は上海民間交流団と会見した際、「我々は深く反省し、歴史の教訓を学び、得がたいものである今日の平和を大切にしなければならない」と述べた。牧野市長は15年に渡って市長を務めながら、飯田日中友好協会と一体となって飯田市の残留孤児の帰国支援活動に力を注いでおり、残留孤児たちが今まで自分を育ててくれた中国の養父母に感謝していること、そして帰国後の定住サポートに誰もが満足していることを明らかにした。(東方網)

「北京週報日本語版」20195月22

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