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長征、叙事詩のごとき道のり
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殷普民 · 2016-11-16 |
タグ: 長征;中国共産党;政治 | 印刷 |
紅軍はそれまでのゲリラ戦を放棄し、陣地戦に転じた。後に、これは致命的な誤りだったことが証明された。1934年上半期、紅軍は極めて大きな損失を被り、10月中旬から戦略的移転を開始せざるを得なくなった。こうして長征が始まった。この時、紅軍にはまだ8万5000人の兵士と1万5000人の幹部がいた。
しかし、長征の最初の段階で、紅軍は甚大な損失を被った。紅軍第一方面軍がまとめた資料によると、これらの損失は行軍の途中にぶつかった障害や戦略的誤りによるものだ。この段階で、紅軍は9回の戦役を経験し、2万5000人を超える紅軍の戦士が犠牲となった。一週間続いた湘江戦役の後、紅軍は3万人足らずしか生き残っていなかった。
ターニングポイント
1934年12月、紅軍は貴州省黎平県の政府所在地を占領した。紅軍は短い休息を取り、不必要な物資をすべて捨てた後、再び陣容を整え、貴州省の中心部へと向かった。不必要な負担から解放された紅軍は再び初めの頃の状態を取り戻し、多くの小さな町を攻め落した。紅軍は新たな策略を採用し、直線的な行軍をやめ、国民党が意図を推測できないように、敵をかく乱する一連の迂回行動を取った。
1935年1月5日、紅軍は貴州省第2の都市である遵義を攻め落とした。1月15~17日、中国共産党中央は遵義で政治局拡大会議を開き、これまでの誤りを是正し、今後の計画を策定した。
長征史の専門家で前遵義会議記念館副館長の費侃如氏はインタビューに応じた際、「遵義会議が長征の勝利のために基礎を固めた」と語った。
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