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五輪は新時代の日中関係を映す鏡
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· 2022-06-09 · ソース:人民中国 |
タグ: 中日関係;五輪;中日交流 | 印刷 |
東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会事務総長
「東京―北京フォーラム」日本側指導委員会委員長
武藤敏郎(談)
今年2月、私は東京オリ・パラ組織委員会の事務総長として北京冬季五輪の開幕式に招かれたが、それ以前にも中国には何度も足を運んでいる。
中国のエネルギー
初めての訪中は2005年か06年、中央銀行の副総裁として行ったのだと思う。当時は上海の浦東地区がまだ工事中で、黄浦江を挟んだ広大な土地がまだ建設現場のような状態だった。10年の上海万博にも、出張ついでに足を運んだ。その頃の上海はすでに立派に発展していて、中国のエネルギーに感服した記憶がある。
10年は名目GDP(国内総生産)で中国が日本を抜いて世界第2位の経済大国になった年だ。1970年に大阪万博が行われ、その40年後に上海万博が行われた。また、前回の東京五輪は1964年で北京五輪は2008年と、44年の差がある。つまり中国は、およそ40年の時間をかけて日本の後を追い掛けてきているということだ。
今では中国のGDPは日本の3倍くらいになっているが、1人当たりではまだ日本の4分の1だ。よって一人一人の豊かさではまだ途上にあるということだと思う。
中国は発展のスピードを増し、日本との距離がどんどん縮まっているので、1人当たりのGDPが追い付く日も近いのかもしれない。中国が今後も発展するのは間違いないが、高齢化社会などの課題は少なくない。その課題をいかに解決するかが、今後の発展にも関わってくるだろう。
日中交流に寄与した五輪協力
北京冬季五輪の際は開会式に参加するだけだったので、数日しか滞在できなかったが、非常に厳格なコロナ対策が行われ、安心して滞在できた。選手村も見学した。北京大会は成功裏に終わったと思っている。
残念ながら北京の街には出られず、車中から見るだけだった。コロナ対策のためにはやむを得ないことだが、ホテルから鳥の巣(国家体育場)や選手村までの移動中に車中から見た感じでは、オリンピックのためによく整備されているという印象だった。
日本はコロナ下に東京五輪を行い、多くの人から感動の声が出た。その際に作ったコロナ対策「プレーブック」にはPCR検査の頻度、行動規制、陽性時の隔離などを列記し、アスリート向け、プレス向け、国際競技連盟向け、IOC(国際オリンピック委員会)向けなど、対象別に内容を変えて厳密な内容にした。このプレーブックは、北京冬季五輪組織委員会にも内容を共有していただいた。東京大会のノウハウをもとに、中国独自の方法も加えたことだろう。東京大会の知見が北京で生かされ、とてもうれしく思っている。
北京冬季五輪は東京大会同様チケット販売を諦めた。日本は一部地域で観客を入れ、東京とその周辺では無観客開催だったが、北京では招待された市民がかなり大勢入場していた。開会式だけ見ても数万人単位で入っていたと思う。おそらく検査などを徹底した上での入場だったのだろう。観客を入れたことで感染拡大したという話はなかったし、有観客開催はとても良い決定だったと思う。東京もそれを望んでいたが、実現できなかったのがとても残念だった。北京で実現できたのは、とても喜ばしいことだ。
オリンピック・パラリンピックはアスリートの大会ではあるが、スポーツの祭典という枠組みを超え、社会を変える力を人々に与える影響力があると私は思った。そんな大会がアジアで2年連続開かれたことは意義があると思うし、日中交流にも寄与したと思う。
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