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ありのままの中国を日本に紹介することが使命 麗澤大学の三潴正道教授
本誌記者・李一凡  ·   2021-05-21  ·  ソース:北京週報
タグ: 改革開放;中日友好;中日交流
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「私が最初に中国を訪れたのは改革開放の兆しが現れた1977年だ。その後ずっと年数回は必ず中国を訪れていたので、昨年コロナで行けなかったことは何とも残念だが、私が中国に通い続けた44年間はまさに中国の改革開放の期間に相当し、毎年中国の発展を目の当たりにすることができた。これは望外の幸せと言うしかない」

このほど、麗澤大学の三潴正道教授は本誌のインタビューに応じ、自身と中国との縁、この間の中国の変化、中日協力のあるべき姿などについて語ってくれた。

麗澤大学の三潴正道教授(写真=本人提供)

『人民日報』を通じて中国語を学び続けた40年

三潴教授と中国との縁は深く、祖父は近代中国の啓蒙思想家・革命家である梁啓超と親交があり、家族も中国との交流に積極的に携わってきた。そのような家庭で育った三潴教授は子供の頃から『三国志』や『水滸伝』などの中国文学に熱中し、『水滸伝』に登場する108人の英雄豪傑の名前を全部そらんじることができたほどだったという。「私と中国との縁は宿命的とも言える。中国語学科を目指したのは必然だったかもしれない」と三潴教授は話す。 

東京外国語大学の中国語学科を卒業後、三潴教授は中日交流事業に身を投じ、訪中団の通訳などで何度も中国を訪問した。しかし、当時口語体しか学習したことがなかった三潴教授はスピーチ原稿の翻訳で四苦八苦していた。話し言葉と書き言葉の違いを痛感した三潴教授は書面語を習得するため、『人民日報』を全部読もうと決心した。「その頃はまだ1日4面だったので何とかなったが、それでも当時の私にとっては、辞書を引きつつ読み終わるのに何時間もかかった」と三潴教授は語る。 

1980年代初頭から、三潴教授はほぼ毎日『人民日報』を読むようになり、その習慣は今でも続いている。

三潴教授がとりわけ注目した中国の計画性

そうする中で、三潴教授はありのままの中国を日本に紹介することを使命と感じ、少しでも中日友好に寄与したいと考えるようになったという。 

中国の発展のスピードや人々の努力など、三潴教授にとって日本人に紹介したいことは山ほどあるが、特に伝えたいのは中国の計画性だという。「多くの日本人は中国に対し、事前にきちんと計画を立てず、まず始めようとするから失敗が多いと思っているが、綿密に分析するとこれはとんでもない誤解だ」と話す三潴教授は、「例えば地域発展政策を見てみると、1980年代の沿海地方の発展、1990年代前半の『三沿』開放(沿海、沿江、国境地域の開放)、同後半からの交通インフラ整備と全ての村に道路・電気・電話などを通す『村村通プロジェクト』、第12次5カ年計画(2011~2015年)の全国主体機能区計画による『両横三縦』の構築、そして京津冀や粤港澳大湾区に代表される高度経済圏の発展など、中国共産党の指導のもと、中国の各地域は見事な発展を遂げた」と具体例を挙げて答えてくれた。 

計画性のほか、中国の行動力も三潴教授に深い印象を残した。「1980年頃に深圳を通った時、『ここに経済特区を造る』と聞いて、われわれは皆半信半疑だったが、10年後には大都会に様変わりしていて驚嘆させられた。また、緑化についても同様だ。1980年前後には荒涼としていた黄土高原が、数年前訪れた時には車窓から延々と続く緑が見え、奥地の山まで植林が進んでいた」と三潴教授は感慨深げに振り返る。

今年は中国共産党創立100周年に当たる。中国の発展における中国共産党の役割と執政能力を三潴教授は高く評価し、「とりわけ改革開放が始まって40数年、膨大な人口、広大な土地と少ない耕地、多くの貧困人口を抱えた中国を、人類史上まれに見るスピードと規模でここまで発展させた。紛れもなく中国共産党の大きな功績である。何人もこれを否定することはできない」と述べた。

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