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◇「鑑真和尚に恩返しをしたい」㊦◇
~清水安三先生の訪中目的に感動~
斎藤文男(元・南京大学日本語学部専家)  ·   2017-07-24
タグ: 鑑真;清水安三;中日交流
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◇崇貞学園の精神は失われず◇ 

郁子夫人はその後、安三先生と2人で崇貞学園を発展させたが、日本の敗戦で学園は中国政府により1945年11月、教室2棟、寄宿舎14棟のほか、体育館、図書館、講堂など計24棟が接収された。 

46年3月、夫妻は持てるものを一切失い、これからという時に崇禎学園を途中で放棄しなければならず、無念のうちに日本に引き揚げてきた。北京の貧民街の娘たちの生活の基盤と、教育を通じて立ち上がらせようとした事業も、鑑真和尚への恩返しも未完成になってしまった。 

しかし、安三、郁子夫妻は諦めたわけではなかった。労働をし且つ書を読む「工且読書」と、学んで人に事(つか)える「学而事人」は崇貞学園の精神だった。労働を通じた実際から理論へと考え、学問のための学問ではなく、人に事(つか)えるために学問をする、という崇貞学園の精神を日本でも継続しようと考えて行動した。2人は渾身の力をそそいで、奇跡のような偶然の出会いなども重なり、引き揚げて来た2カ月後の5月5日、桜美林学園高等女学校を創立させた。学園の名称は、敷地の周囲に桜の木があったことと、夫妻が学んだ米国オハイオ州オベリン大学にちなみ「桜美林」と決めた。 

北京のスラム街で砂漠の中のオアシスのような存在に育った「崇貞学園」にはまだ及ばなかったが、桜美林学園の精神は崇貞学園と変わらなかった。 

学園は義務教育の63制が導入され、47年には新制中学校、48年には新制高校、50年に短期大学、66年には念願だった大学を設立することが出来た。郁子夫人は中学高校長、短大教授を歴任し、安三先生と共に学園の発展に奮闘してきたが、64年6月24日、71歳で亡くなられた。 

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