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2世代にわたって奏でられ続ける「中日友好の調べ」
  ·   2016-11-07  ·  ソース:
タグ: 中日友好;2世代;中日交流
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1948年春、河北省平山県古賢村にある晋察冀軍区栄臻学校に、十数人の日本人の学生がやって来た。そのうちの安達勇君と田子和さんが私と同じクラスになった。(文:北京市八一学校1952年度卒業生 景暁起。北京晨報掲載)

その日本人の学生たちの両親は皆医者だった。1945年、中国が抗日戦争に勝利して以降、北京には高い技術を誇る日本人医師がたくさんいた。さまざまな理由で、日本に帰れないその日本人医師たちをめぐって、中国の国民党と共産党が争奪戦を繰り広げていた。進んだ思想の持ち主である病理学教授・裨田憲太郎さんの影響と指揮の下、その医師たちは北京の国民党軍隊の誘いを断り、共産党の秘密地下組織と連絡を取るようになった。裨田さんは招きに応じて、秘密地下組織の指導者だった劉仁氏と北京の西山で顔を合わせた。彼は、西山にある我が軍の駐屯地で熱い歓迎を受け、人民軍の仕事ぶりや厳しい紀律を見て、腐敗していた国民党の軍隊とは全く違うことを知った。劉氏の招きで、彼は解放区の八路軍(共産党軍)に加わることに決めた。北京の秘密地下組織の手配で、裨田さんは日本人医師約20人を引き連れて、河北省張家口を訪れた。そして、晋察冀軍区衛生部の殷希彭部長の紹介と手配により、八路軍に加わり、白求恩医科大学の前身である張家口医校で働くようになった。裨田さんは同軍区の衛生顧問、張家口医校病理研究室の室長になった。46年、国民党の反動派が内戦を起こし、張家口は敵軍の主な攻撃対象となった。同年9月、戦いを目の前にしていたものの、日本人医師たちは我が軍に残ることにし、学校が張家口を撤退したのと共に、河北省唐県にある晋察冀軍区後方の病院にやって来て仕事を始めた。同病院はそれからしばらくして「白求恩国際平和病院」という名前に変更し、48年5月に石家庄へ引っ越した。その時、同病院には日本人医療関係者が100人以上いた。安達さんの父親である安達仁さんは医師として病院の外科主任を担当し、部隊と共に太原戦役などにも参加し、最も危険な前線で負傷した兵士の救護に当たっていた。田子和さんの父親である津沢勝さんは医師として同病院の内科主任を務め、母親は小児科の医師を務めていた。日本人医師たちは勤勉に働き、苦労もいとわず、苦難に満ちた戦争時代に、優秀な医療スタッフをたくさん育てた。そして、解放軍の衛生部門の中核を担った。

1953年初め、日本の赤十字会と中国の関係者の話し合いの末、第二次世界大戦中に中国に残された残留日本人を帰国させることが決まった。同年3月、日本人同級生たちも、別れを惜しみながら、両親と共に日本へ帰っていった。長年中国で暮らしていたため、同級生たちにとって、中国は第二の故郷となり、育った中国には深い思い入れがあった。彼らは帰国後も、たくさんの同級生や学校、仲が良かった友人らと連絡を取り続けた。八一中学(中高一貫校)の50周年と60周年記念の時、安達さんと田子和さん(結婚後は池谷田鶴子さんに改名)は、休みを取って北京を訪問し、記念活動や同窓会に参加した。日本人同級生の多くは大学卒業後、親と同じ医療・衛生の仕事に携わるようになり、中日友好のために大きく貢献してきた。安達さんは、日中医学協会の常任理事長を、田子和さんは日中医学協会の理事を、それぞれ務めたことがある。彼らの努力もあり、日本が無償資金援助を提供して、中日両国の政府は大型総合現代化病院「北京中日友好病院」を建設し、84年10月23日に開業した。また、87年に中国衛生部(省)と日本日中医学協会は、毎年、中国医学界の青年医師100人を選出して日本へ送り、1年間研修、学習、研究することで合意した。安達さんと田子和さんは中日友好のためにたゆまず働き、毎年、中日両国で何度も講演を行ったり、留学生や大学院生の選抜を行ったりしている。

2世代に渡って70年以上続いてきた「中日友好の調べ」は今もその音を奏でている。中日友好がこれかからも引き継がれ、永遠に続くことを願っている。(編集KN)

「人民網日本語版」2016年11月7日

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