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「万引き家族」と「身毒丸」に見る日本の家族の真相
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· 2019-03-29 · ソース:人民網 |
タグ: 家族;日本;文化 | 印刷 |
「現代の日本の家族倫理に対する反対」というテーマを、是枝監督も引き継いでいる。「万引き家族」に登場する家族は紛れもなく「形式上の家族」で、その間に血縁関係や婚姻関係は存在しない。道義上の倫理関係が存在するのはさやかと初枝の間だけだ。後半で、さやかは、初枝が自分を利用して両親からお金を無心しているだけであることに気付く。倫理的関係がお金によって破壊されるという流れは、「身毒丸」と似ている。しかし、血縁関係のない、形式上の「父親」、「母親」、「祖母」、「姉」と、祥太、リンの間には非常に深い絆が築かれている。「母親」の信代は、誘拐と殺人の容疑で逮捕された時、「子供にお母さんって呼ばれたことある?」と聞かれ、動揺して涙を流す。
不思議なのは、それら「形式上の家族」が強い「絆」を築き、そこに血縁関係も、利害関係もなく、それぞれが共通の価値観を持っているわけでもない点だ。
「絆」は、中国語で表現するのがとても難しい言葉だ。「絆」は血縁関係という枠を超え、「万引き家族」の中でも、完全に血縁関係を超えて、人間の感情的本能に基づいて築かれている。「海街diary」では、3人姉妹と腹違いの妹との「絆」が描いている。「身毒丸」と比較すると、「万引き家族」の表現手法は異なるものの、それが訴えているものは同じだ。「万引き家族」は、ブラックジョークのような表現方法で、それなりの価値を持つ「形式上の家族」を描き、血縁関係に基づく現代家族倫理に反対する姿勢を示している。「絆」を強調し、本当の家族の表面的な親しさを風刺している。しかし、「身毒丸」の強烈なロマン主義的表現とは異なり、「万引き家族」の結末は現実主義的表現で描写されている。その「形式上の家族」は、そこで築かれている「絆」が、現代の法律的道徳に反しているため、結局バラバラになってしまうことになる。個人の主体性は結局、制度という壁を乗り越えることはできないのだ。
「絆」は制度に立ち向かうことができないという、現代性に対する批判を「万引き家族」は強調している。同作品は「絆」を通して、形だけの現代倫理を批判しているだけでなく、そのような倫理が形成される根本的な原因を考えさせるものともなっている。同作品では、現代の経済制度の人間関係の形成や出会い、別れに対する影響力がいろんなシーンで表現されている。
「身毒丸」も、「万引き家族」も、現代の家族制度を深く分析している。そして、過激な作風の寺山監督や蜷川氏にしても、温厚な作風の是枝監督にしても、「現代の家族制度」に疑問を持ち、日本の伝統的な家族制度を復活させるべきであるという思想を表現している。「身毒丸」にしても、是枝監督にしても、その作品からは、ぼんやりとした実存主義の影響が見え隠れする。翔太は、「形式上の家族」が自分を見捨てようとしたのを見た後も、「家族」として接する。それは、長年培われた生活習慣のようなものなのかもしれない。翔太にしても、身毒丸にしても、「生きる」ことが第一であって、道徳や倫理は二の次なのだ。現代性が今後も引き継がれるとすれば、個人や家族はどこに行きつくのか、その答えは依然として不明確だ。しかし、明るい未来が見えている以上、無意味なことのために競争し合うことをしてはならず、実在主義の影響を受けて、現代性に対する反省を止めてしまってもならない。 (編集KN)
「人民網日本語版」2019年3月29日
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