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「万引き家族」と「身毒丸」に見る日本の家族の真相
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· 2019-03-29 · ソース:人民網 |
タグ: 家族;日本;文化 | 印刷 |
もし、先に「身毒丸」を見ていなければ、上記の事には気付かなかったかもしれない。
「身毒丸」は寺山修司と岸田理生監督が共同で手掛けた1970年代の舞台作品だ。寺山監督は子供の頃から母親とそりが合わず、多くの作品で母と息子の対立、敵対を描いている。なかでも「身毒丸」は、奇異なストーリーで母親と息子の関係が描かれている代表的作品だ。少年・身毒丸は、幼い頃に母を亡くし、継母・撫子を受け入れることはできず、その関係は悪化の一途をたどる。撫子は身毒丸の目を潰し、盲目になった身毒丸は、復讐のために義理の弟・せんさくを殺す。家族は崩壊し、父は狂う。しかしその後、撫子と身毒丸は和解し、禁断の恋へと落ちる。舞台演出家の故・蜷川幸雄氏は「家族の構造」という観点からこの作品を解釈し、「現代(明治維新以降)の日本の家族構造は、父親を中心としている。同作品では、父親が母親を家族の『必需品』とみなし、『家族』をつくる。しかし、買ってきた継母の女性としての意識が覚醒してしまい、その家族は崩壊してしまう」と説明する。
蜷川氏が演出を手掛けた演劇「身毒丸」では、身毒丸と撫子の関係を通して、現代の日本の家庭制度に強く反対する思いが描写されている。「身毒丸」の家族は、表面的には、父親、母親、子供という家族の要素を備えているものの、それは父親が母親を買ってくるという金銭関係の上に成り立っており、撫子は自分を女性としてではなく、家を構成する母という役割でしか見てもらえず、物のような扱いを受けているにもかかわらず、そうでなければ家庭の表面的な調和がとれないことに苦しむ。そして、女性として認められたいという基本的な願いが表面化した時、その調和は音を立てて崩れてしまう。つまり、日本の現代の家族制度の基礎となっている倫理、道徳は「形」だけにこだわり、人の自由、本来持つ感情を無視していると言えるだろう。
「家庭主義」や「個人主義」も同じく日本の現代化の産物だ。明治維新以降、西洋の思想の影響を受け、人の個性、個人としての価値が重視されるようになった。そして夏目漱石や自然主義文学の作家、白樺派の作家など、各世代の文化人の取り組みの結果、現代的な個人主義を重視する見方が広がった。しかし、個人とグループは本来一体の両面であり、現代的意義を持つ個人主義は、共同体意識の現代化と結び合わせて考えるべきで、「家族主義」とはつまり、現代的な共同体意識であると言えるということを忘れてはならない。
「身毒丸」が強く反対しているのは、大正の時代(1921-26年)に形成された現代倫理だ。その倫理の形成は「大正デモクラシー」と関係がある。工業化により、経済の基礎に変化が生じ、農家は生計を立てられなくなり、都市化が進み、普通選挙に基づいた公民意識が覚醒し、女性が教育を受け、社会に進出するようになり、両親と子供からなる核家族という現代的な家族構造が形成された。第一次世界大戦後、日本の工業は急速に発展し、企業の数が激増。企業の安定した長期にわたる成長を維持するために、企業経営のあり方に家族主義を持込む形でなされる経営方針「経営家族主義」が生まれた。周知の終身雇用制度や年功序列という制度も、そのような意識の影響下で生まれた。企業の職場倫理は、家庭倫理を参考に築かれ、血縁関係に基づく家庭倫理・道徳が、血縁関係のない人が集まる企業の倫理溶け込んでいった。その種の家族主義では、個性をある程度捨ててグループの利益を守らなければならず、同じ根を持つ個人主義や家族主義とはある意味対立していると言える。
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