「政教合一」の封建農奴社会
  •  「四大ガロン」(1957)
    写真はロブリンカ(庭園)にあるガシャ公署で公務についていた元ガシャ(元チベット地方政府)の「四大ガロン」。左からアペイ・アワンジンメイ、シェンカ・ジュメイドジ、リュシャ・トドンタバ、サンポ・ツァイワンリンゾン。
    清(1616-1911)の乾隆16年(1751)に、中央政府はチベット地方の実務管理に対し重要な調整を行い、もとの郡王制を廃止し、ガロン制の実行を決定した。清の中央政府は、ガロンは三品(清の官吏の階級、宰相から県知事まであわせて七品に分かれる)の官階で、あわせて4人が置かれ、そのうち非教徒は3人、僧侶は1人。中央駐チベット大臣はチベットの実務を全面的に管理し、ダライラマ、パンチェンオルドニと平行する形で、ガロン及びその下の官吏は事務の大小を問わず、いずれもチベット駐在大臣に報告しなければならなかった。ガロンの執務場所は、チベット語で「ガシャ」といわれ、のちに「ガシャ」はチベット地方政府の代名詞となった。ガロン制をメルクマールとするもとのチベット地方事務管理体制は20世紀50年代の末期までずっと続いた。チベット地方の反動的な上層部が祖国を分裂させることを企てた武装反乱を起こしたため、中央人民政府によって1959年に解散された。(写真・陳宗烈)

  • アペイ・アワンジンメイ 
    アペイ・アワンジンメイ(1956)(写真・陳宗烈)

  •  ポタラ宮(1956)
    ポタラ宮は最初、西暦7世紀のトバン王朝のソンツェン・ガンポの時代に築造され、もとの名称は「赤山宮殿とりで」(チベット語では「ポズォンマルバチズェ」といわれていた)。長年にわたって風、雨、雷、稲妻や戦乱の破壊をこうむって、旧い宮殿はとっくに存在しなくなっていた。清の初期に至るまで、5世ダライラマとデバ・ギャムツォはその拡充工事を主宰し、ついに現在の雄大な規模をもつに至った。清初期の拡充の際に、康煕皇帝は全国各地から何人かの有能な職人を選び、チベットに行って拡充工事に参加させる勅命を下した。20世紀 80年代いらいの空前の規模をもつ2回の補修工事にはさらに多くの民族の専門家・学者と技術者が参加した。ポタラ宮は中国古代の多くの民族の名匠の知恵と心血が凝集したもので、中華民族の文化の宝庫である。千年来、ポタラ宮は奴隷制社会、封建社会と社会主義の新しい時代を経て、チベット地方と中国のほかの地方とのなが年緊密に結び付いた切っても切れない歴史と文化の結び付きおよびチベットと漢族などの諸民族との「誰もが互いに離れることができない」深くて厚い友情を目にしてきた。
    ポタラ宮は、世界じゅうに名の知られる雄大な宮殿である。それはすでにユネスコ(国連教育科学文化機関)に正式に「世界遺産リスト」に組み入れられ、内外に名を馳せるラサのチョカン寺とロブリンカ(庭園)はポタラ宮建築物群の拡充プロジェクトとして正式に「世界遺産リスト」に組み入れられた。(写真・陳宗烈)

  •  かごに乗って出かける図(1958)

    1958年初秋のある日の正午。ラサの北郊外にあるラル湿地の北端、セラウズ山の南麓の大通りの両側で、石を境界(警戒線に相当)とし、1本の「神道」が形づくられた。威風堂々とした厳かな隊列がゆっくりとこの荒れ果てた神聖な土の道を行進し、彼らは黄色の絹織物で包まれている大きなかごを取り囲んでいる。かごの前にクジャクの傘をかかげる人がおり、かごの上方にひっきりなしにぐるぐる回るとばりのような絹のかさが広げられている。この大きなかごと2つの聖なる傘はすべて清朝の皇帝から下賜されたもので、生まれ変わった歴代の活仏が出かける際の専用する神聖なものである。西暦1652年、5世ダライラマが上京して清朝の皇帝にまみえた時、順治皇帝がダライラマに金の天頂のついた黄色のかごを贈り、国の都に入らせた。北京を離れる時に黄色のかごをたずさえてチベットに戻らせた。その時から、ダライラマが出かけるたびに必ず皇帝から下賜された黄色のかごに乗ることになっていた。その後の歴代のダライラマはこの儀仗の規則を踏襲し、一般はいずれもかごに乗って出かけることになっていた。

    蘇州・杭州産の絹織物で縫製した官服をまとい、大きくて高い馬に乗っている貴族と僧侶ら。古い制度に従って、僧侶官吏は前に、非僧侶官吏は後ろにおり、各クラスの官吏は職位と官階の高低によって、威風堂々として順次前進する。歩行する者の多くは農奴あるいは奴僕であったが、その装備が整然としており、服装も鮮明で、彼らは護衛兵あるいは侍従で、途中で主人のために馬を引き、鐙をつけ、あらゆる手を尽くして自分の主人を護衛し、世話をしていた。16人の「清兵」(清王朝の兵士)の身なりのかご担ぎは穏健で調和のとれた足並みで皇帝から下賜されたかごを小心翼翼として担いでいた。かごの中に黙々として坐っているのは人々の上に立つ若くて孤独な活仏であり、彼は好むかどうかに関わらず、必ず背くことのできないわだちに沿って、ゆっくりと進まなければならない。

    当時、普通の庶民はすべて「神道」をまたがり越えることは厳禁とされ、警戒線の外で拝謁、観覧あるいは通行することだけが許されていた。(写真・陳宗烈)

     

  •  レプン寺のコゲシにおける14世ダライラマ

    レプン寺のコゲシにおける14世ダライラマ(写真・陳宗烈)

  •  ネチュン祈祷師(1958)

    昔、チベットのガシャ(地方政府)が重要な事にぶつかるたびに、往々にして神のお告げを聴取するものであった。大小さまざまな祈祷師の中で、ネチュン祈祷師は特殊な地位を占めていた。彼は清王朝が指定した7700人の僧侶を擁するレプン寺の予言者で、その上ダライラマとガシャの首席祈祷師でもあり、官階は三級で、大ラマと尊称されていた。数百年来、神秘的な雪のつもった高原に人々を驚かせる出来事がたくさん起こり、例えば何人かのダライラマの魂の生まれ変わり、何人かの摂政者の微妙な政治的生涯はほとんどすべてネチュン祈祷師の神様が乗り移ったことと関係がある。高官高位の人たちが彼の前で恭しくかしこまるばかりでなく、「全知全能」の「観世音菩薩の化身」、「雪のつもった高原の神の王様」といわれるダライラマ本人までも、難問あるいは戸惑いがあると、ネチュン祈祷師を招いて神様を乗り移らせ、神様のお告げを仰ぎ、決断を行うのであった。ネチュン祈祷師は、彼が何よりも勇猛なバイハル神の王様の代弁者であるばかりでなく、北方の護法神の王様のチリェジェポ、西方の護法神の王様の重臣のドジェチャムディェンの意志を表わすことをも兼ねることができ、彼が神様を乗り移らせた時に言い出す「神様のお告げ」が不可抗力の権威性を持つものであると自称した。ネチュン祈祷師が神様を乗り移らせた時に、武将の着る金のよろいの長衣をまとい、胸に心臓を守る銅製の鏡をつけ、まるで古代の威風堂々とした将軍のようであった。その左右の両側にそれぞれ世話する「ゴンボ」(助手)1人がいて、後ろにはまた多数の奴僕がついていた。彼がよろめいて神堂から出る時、数百人を数える僧侶がチャルメラと法事用のラッパを吹奏し、太鼓とシンバルを打ち鳴らし、大声で読経し、その音は耳をつんざくようで、線香の煙をあちこちで目にした。「ゴンボ」は直ちに彼に豪華で重い(聞くところによると30キロもある)金の兜をかぶせ、そして兜の帯をしっかりとそのあごに締め、祈祷師は瞬間に顔が赤くなり、呼吸が短くなり、全身がぶるぶる震え、口から白い泡を吐き、しどろもどろに「神様のお告げ」を述べ始める。クライマックスに達した時、彼はむやみに跳びはね、あちこちをむやみに打ったり切ったりし、彼の体の中に神様の魂が付着しているようであった。神様のお告げを伝え終わると、すぐぐにゃぐにゃになって地べたに倒れる。「ゴンボ」は急いで前に出てそれを支え、兜の帯を解き、大急ぎでマッサージし、通常の人間の状態に回復させる。

    写真は1958年の秋に、ネチュン祈祷師が「神様のお告げ」を伝えるのを聞く14世ダライラマ(左の背影)。(写真・陳宗烈)

  • ロブリンカ(庭園) 
     ロブリンカ庭園でダライラマを宮殿へ迎える僧侶と非僧侶の官吏たち。(写真・陳宗烈)

  • ゲシュエドンチュさん(1956) 

    ゲシュエドンチュさんはもとの「ガシャ」(チベット地方政府)の4級の官吏であった。1956年『チベット日報』の創刊の際、「ガシャ」はゲシュエドンチュを派遣して新聞社に行って副編集長となった。人々はドンチュさんを「ゲシュエセさん」と呼び、意味はゲシュエ家の坊ちゃんということである。その少年時代はかつてインドで就学し、英語がわかり(ダライラマの英語の書記官を務めたことがある)、チベット語の基礎もよいが、漢語はできない。

    「家柄・身分がつり合う」という伝統に従って、彼はツァユン家の3番目のお嬢さんソランチョマさんを妻として迎えた。1956年、彼はかつてチベット愛国青年懇親会副主任の身分で、中国青年代表団の一員としてブダペストを訪れ、世界青年交歓祭に出席した。

    1959年3月、彼は武装反乱分子の脅迫を顧みることなく、毅然としてもと住んでいた官邸から家族を携えて新聞社の庭にある住宅に引っ越した。武装反乱分子の密集した銃声・砲声の中で、新聞社の従業員たちと一緒に動乱を迎え、ろうそくの光の下でチベット語版の『チベット日報』を編集・翻訳した。1969年に病死した。(写真・陳宗烈)

  •  チャリン・ジンメイソンツェンワンプ(1958)

    13世ダライラマは新政を推し進め、一部の貴族はそれに呼応し、上層部のfKR社会で活躍した。そのうち、リーダーであったのはチャリン一族であった。この一族はシッキムの王室から来たものである。昔、シッキムはチベットの属領であり、皇室の人にはラサに行って官僚になる伝統があり、ガシャ(チベット政府)も彼らに領地を与えた。この世代の頃には、シッキムがイギリスとインドに占領されていたため、故郷に帰りにくくなった。チャリン・ジンメイはいっそのことラサに定住した。チャリン・ジンメイはこの世代の長男で、大貴族ツァユン家の4番目のお嬢さんリンチェンチョマさんを妻として迎え、ツァユン家と婚姻によって親戚となり、ダライラマに4級の官職を授けられた。彼の思想は比較的に開放的で、また多芸多才であった。彼は真っ先に郊外区で庭園風の別荘をつくり、しかもラサにおけるファッショナブルな婦人服をデザインする先駆者となり、彼がデザインして作った「チャリンニャンシャ」と名付けられたきれいな女性用金花帽子が速やかに普及し、それから「バチュ」といわれる旧式の帽子をかぶる女性は少なくなった。以前、ラサの女性が使っていたエプロンは幅が広くて長いものであったが、彼はあらたに短くて狭いエプロンをデザインし、非常に上品で美しく見えるものであった。彼はよく写真や映画を撮り、当時ラサでは、彼は最新の流行を追い求める人物であったと言える。(写真・陳宗烈)

  •  ドガ・ポンツォロジェさん(1956)

    ドガ・ポンツォロジェさんの別名はロガサ・ポンツォロジェであった。ラサでは、人々はみな彼をロガサと呼んでいた。これは大貴族に対する呼称であった。以前、チベットの貴族はよく荘園の名称を自分たちの苗字とし、あるいは自分の邸宅の名称を自分の名前の前につけていた。「ドガ」は彼の家の荘園の名で、「ロガサ」は彼の家のラサにある住宅の名称であった。彼の官邸はチョカン寺の南側に位置し、チベット風の3階建てのとりでのような建物であった。

    ドガ一族の旧チベットにおける地位は非常に高かった。考証によると、彼はトバン王朝の宰相ルトンツァンの子孫で、祖先はかつて次々とラサ北部のダルン、ポンド、リュンズフなどで行政・宗教の権力を握っていた。

    彼はチベットの著名な愛国人士、 中国人民解放軍の高級将官である。平和解放以前、チベット地方政府の四大ガロンの1人、チベット軍総司令官であった。平和解放以後、チベット自治区準備委員会委員、中国人民解放軍チベット軍区副司令員となり、階級は中将であった。(写真・陳宗烈)

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    ソカン・ワンチェンゲロ(1958) 

    ソカンは4世ダライラマの子孫と自称している。昔、ソカン一族はチベットで数多くの荘園と財産を擁し、大きな権勢をもつ代々名門の貴族であった。

    昔、ラサは僧侶と非僧侶貴族の天国であった。かつての習わしによれば、毎年の真夏になると、リンカ(庭園)祭が催され、夏の宴を催すことになっていた。貴族たちは順番にホストとして互いに招待し合って豪華な宴会を催した。宴会の日には名門の貴人たちはお年寄りや若者をしたがえて、招かれた宴会の場所に集まった。参会者は官職の高低によって旦那さま、夫人、若君、お譲さんがそれぞれのテント別に住むことになっていた。女性の家族たちがこのような催しに参加する際、その身なりはとりわけ上品で美しく、彼女たちはきわめて顕著な競争意識をもち、いつも互いに身なりについて話し合うことを好んだからである。ホストは大盤振舞いをし、お客さんたちは心行くまで飲んだり、食べたり、遊んだりし、また民間の芸人を招いて歌を歌ったり、踊りを踊ったりさせて興を添えた。宴会の出費が莫大なものであったため、往々にして普通の貴族は財産がすっからかんになるほどであった。例えば、1947年のリンカ祭の宴会の催しはルカンワの番になり、彼はしきりに悩みを訴えた。裕福なガロン(元チベット地方政府の主管高官)、大貴族のソカンはそれを知って、進んで自分の家が昨年に盛大な宴会を催した時に使ったあらゆる用具、食器やその他の物を全部ルカンワに手渡し、その上この夏の宴のすべての出費を負担した。大金を出すことは、ソカンにとっては些細なことであった。(写真・陳宗烈)

  •  ツァユン・ダサンズァンドィ(1959)

    ツァユン・ダサンズァンドィはもとはラサ北東部のポンボ地方のある矢を作る職人の息子であったが、仕事があまりにもきついため、セラ寺に出家して僧になり、ある僧官の侍従となり、のちにロブリンカ庭園へ草花や樹木を植えに行ったりした。1904年に、イギリス軍がラサに進攻し、13世ダライラマのトゥプテン・ギャムツォは一部の官吏とお供をしたがえて夜中に中国の他の地方へ逃れた。随行のツァユンという人は頭の回転が速く、ダライラマに対する世話も行き届き、ダライラマの歓心を買ったため、ダライラマの側近の侍従となった。ツァユンはモンゴルのクルンに行ってモンゴル語を身につけ、おかげで仕事にプラスとなったばかりでなく、よくダライラマの通訳の仕事もし、ダライラマにとっては更に余人に変え難い存在となった。

    1911年の辛亥革命の後、ラサは大混乱状態にあった。当時、ガロン(チベット地方政府の主管高官)の1人であったツァユン・ワンチュジポとその息子はいずれも「清側に近い人間」という罪名で1912年の粛清の中で殺された。1913年、13世ダライラマはラサに戻り、ツァユン家の悲惨な最期を耳にして非常に同情し、ダサンズァンドィをツァユンの家に婿入りさせ、後家となったツァユンの息子の嫁リンゾンチュチェンの夫となるよう決めた。名門の出身、聡明できれいなリンゾンチュチェンは、身分の卑しい従僕を卑しめ、断固として従わなかったが、公然と神である王の意図に逆らうこともできず、出家して尼僧になることを口実として婉曲に断わった。ダサンズァンドィの感情を傷つけないために、リンゾンチュチェンはまたダサンズァンドィにツァユンの長女、バイマチョガと結婚させるという双方を納得させる方法を打ち出した。昔のチベットの貴族は、土地と属民を擁していたほか、官僚になる権利もあった。ダサンズァンドィは貧しい家の出身で、以前のしきたりによれば、一般の平民には官途につく可能性はなく、どうしてもその必要がある場合でも、必ずまず貴族にならなければならなかった。ダライラマの特別の寵愛を受けるため、ダサンズァンドィはツァユン一族に婿入りし、ツァユンの代々の貴族の後継ぎとなった。その後とんとん拍子で出世し、たちまちチベット軍総司令官に昇進し、続いてまたガシャ(チベット地方政府)のガロン、スロンなどの官職についた。当時、ダライラマを除いて、ダサンズァンドィはほとんどチベットで最も権勢のある人となった。ツァユンがなくなった後、もとの「大貴族」はすでに名ばかりで実質が伴わず、古い邸宅のほか、残っていたのは債務のみであった。ダサンズァンドィはこの一族をあらためてもり立てる決意であった。彼の教育レベルは高くはなかったが、聡明で経済に明るく、金儲けもうまかった。彼は職権に頼って、チベット地方政府の財政局からお金を借り、腹心を派遣してまずインドに行ってチベットの羊毛と牛の絨毛を売り、大量の金、銀、絹織物と毛織物を仕入れて運び戻り、さらには成都、康定、西寧、大理などで商店を開設し、チベットの土産品とインドから運んできた外国製品を売り、同時にラサ、シガズェなどで中国の他の地方の陶磁器、絹織物、茶などを売った。彼はバゴ街にあるツァユンの旧宅を新興の富豪バンダチャンに売り、自分はシャザリンカ(庭園)で土地を購入し、三階建ての豪華な住宅をつくり、その東西両側にそれぞれ1つの美しい庭園をつくり、庭園の中にはさらに西洋風の別荘を建てた。ダサンズァンドィはまた婚姻関係を利用することに長じ、上層社会で姻戚関係のネットを張りめぐらした。彼はツァユン家の長女と結婚した後間もなく、美人の次女を大貴族ホカン家に嫁がせ、ザサホカン・ポンツォワンチュ夫人となるようにし、三女ツェリンユィチェンをシガズェのところに嫁がせ、大貴族デロニョデン家の2番目の若君の夫人となるようにし、さらに四女のリンチェンチョマをインドのダージリンに留学させ、学業終了後、大貴族チェリン・ジンメイのところに嫁がせた。ツァユン家の次女ツェタンチョガが年を取ったホカンのところに嫁いだ時はわずか16歳でしかなく、その後男の子1人、女の子1人を生み、息子はホカン・ソランビェンバ(前世紀にかつてチベット自治区政協副主席を務めたことがある)と呼び、娘が大きくなった後ギャンズェの貴族ネドィの妻となった。しかし、ホカンザサが年を取った上にいろいろの病気を患い、その後死去した。ホカンザサが死去した年にツェタンチョガは24歳だった。この美しい未亡人を前にして、ダサンズァンドィは同情して、常にその生活を世話するという口実でホカン家に行って面度を見るとともに、彼女と同棲し、しかも子女6人も生ませた。そういうことで、ダサンズァンドィはツァユン家の姉妹2人の夫となった。チベットの伝統的社会では、兄弟が妻を共有し、姉妹が夫を共有する婚姻の習俗があったため、ダサンズァンドィのやったことは別におかしいものではなかった。しかし、この6人の子女がホカン家で生まれて成長することは、ホカン一族にとって重い負担であることは明らかであった。貴族の家庭では、すべての子供に専従の使用人、保母をつけなければならず、娘たちがお嫁に行く時にはまた嫁入り道具をどっさり持たせなければならなかった。ホカン一族はチベットでは非常に高い名声があるが、経済的には非常に貧しく、このような重い負担に耐えられなかった。長男のホカン・ソランビェンバはすでに成人し、一家で主な役割を果たし、実の母親と争うこともなかったが、ダサンズァンドィをガシャ(政府)に告訴し、ダサンズァンドィはやむなく自分の肉親の子供たちをツァユンの家に迎えて暮らすことになった。彼の妻ペイマチョガは子供を生めなかったので、これらの子女は当然ツァユン家の本当の子孫となった。

    のちに、長女のツェリンヤンゾンはブータンの首相ジンメイドジに嫁ぎ、次女デジチョマはヤォシピンカン・ツェリンドンチュに嫁ぎ、三女のソランチョマはガシュエ・ドンチュに嫁ぎ、四女のツェリンチョマはデム活仏の長男の嫁となり、五女のドンチュチョマはシュエカン・トゥデンニマに嫁いだ。末っ子のピンツォギャンツァンは20世紀80年代にチベット自治区の政協委員となった。

    ツァユン・ダサンズァンドィはその後の役人としての運が狂い、最初はチベット軍総司令官を免職され、続いてまたチベット地方政府の主管高官もクビとなった。13世ダライラマのトゥデンギャムツォが円寂した後、ツァユン・ダサンズァンドィは後ろ盾を失い、その後政界で再起不能になり、ただ「テジ」という肩書きだけが残されていた。ところが、金運の方はやはりよく、多くの姻戚関係に頼って、人間関係の寂しさを味わうこともなかった。

    チベットの貴族の身なりは平民と違い、生地も贅を尽くし、袖も長く、まったく力仕事をしないことを示しており、肉体労働は召使いのする事であったからだ。だが、召使い出身のダサンズァンドィは出世し、高官、豪商になったことがあるとはいえ、地金そのものは変わらず、依然として野良仕事が好きであった。彼は以前花屋であったこともあり、平日は草花をいじったり、商売をしたり、資産を管理する合間にまた多くの時間をさいて草花、果樹を栽培した。20世紀50年代に、ラサの多くの草花はかつて「ツァユン」という名前が付け加えられていた。例えばツァユンイバラ、ツァユンバラなどがそれである。彼はまたラサの川岸の別荘区に菜園を作り、大金を惜しむことなく何度も山を越えて、国外からガラスを運んできて温室をつくり、さらに外国から野菜の種を導入した。野菜を収穫した後、彼は大急ぎでハナヤサイをプレゼントとしてかごに入れて、使用人に嫁や婿の実家に届けさせる。娘のしゅうとガシュエバは高位高官の人であるとはいえ、従来からこのような植物を目にしたことはなく、手紙で尋ねてきた。手紙の中でダサンズァンドィに次のように語っている――お土産は受け取りました。ありがとうございました。しかし教えを乞うことをお許しください。このお土産はいったい花であるのかそれとも野菜であるのか?もし野菜であるならば、そのつくり方を教えていただけないか、と。ツァユンは手紙を受け取った後、すぐコックさんをその人のところに野菜で料理を作りに行かせた。

    1959年、ツァユン・ダサンズァンドィはチベットの上層部の反動グループに追随して武装反乱に参加し、武装反乱本部副司令官となり、3月22日にポタラ宮で捕虜となり、まもなく獄死した。(写真・陳宗烈)

  •  貴族の草競馬(1957)

    チベット暦の毎年1月27日になると、ラサの一部貴族青年が北郊外の流砂川のほとりに集って、草競馬の会に参加し、チベット語では「ゾンジュシャンベ」といわれ、「ポタラ宮の裏で行う競馬」という意味であった。貴族達は豪華な服をまとい、頭には古代のいくさで英雄が凱旋する時にかぶる赤い色の絹織物で作った丸い帽子をかぶっていた――これは1種の栄誉と見なされ、その祖先がいくさで手柄を立てたことがあるため、貴族に封じられたのであり、子孫としての彼らは先祖の代から伝えられてきたこの栄誉を受け継ぐとともに、それを享受していることを誇示していた。奴僕(古代の騎兵に扮している人たち)に取り囲まれて威風堂々と競馬場に向かう騎手たち。(写真・陳宗烈)

  •  目の見えない乞食(1956)

    この物乞いをして暮らしている目の見えない人は、バゴ街でどれだけの歳月を過ごしたのかが分からない。(写真・陳宗烈)

     
     

  • 行商人が売っている兵器弾薬(1956) 

    行商人がバゴ街のツォンセカン市場でおおっぴらに銃や弾薬を売り、これに対し地方当局は見て見ぬふりをしていた。(写真・陳宗烈)

  •  ラマ僧も商売をしていた(1956)

    ラマ僧も商売をしていた(1956)(カメラマン陳宗烈)

     
     

 
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