チベット仏教
  •  ポタラ宮(写真・陳宗烈)
    ポタラ宮(写真・陳宗烈)

  • ポタラ宮の白宮(1978) 

     現在のポタラ宮は17世紀以後に拡充されたものである。ポタラ宮の主な建築物は二つの部分からなり、一つはダライラマが政治および宗教の行事を行い、日常生活を過ごす場所で、一般に白宮といわれ、もう一つは各世代のダライラマの霊塔と祭祀殿で、一般に赤宮といわれている。

    白宮は各世代のダライラマの寝宮と政治行事を行う場所である。なかには大小経堂、蔵書の部屋、雑物倉庫やダライラマに仕えるさまざまな人(約80数人)が使っていた部屋がたくさんあった。白宮はポタラ宮の東西両端にあり、当初は1645年に築造されたものである。それはソンツェン・ガンポの時代から残されてきた観音菩薩殿を中心とし、東西の方向へ拡充されたきわめて大きな宮殿群で、工事は8年間続けられた。白宮が完成した後、第5世ダライラマは直ちにレプン寺からここに移り、円寂の日までずっと住んでいた。そのため、ポタラ宮は僧侶と信徒たちがひれ伏してあがめる聖地となった。それ以後歴代のダライラマは、冬になるとここに住んで執務し、宗教行事を行うことになり、そのためポタラ宮はダライラマの「冬の宮」と称されてきた。白宮の主な建築物はデヤンシャ広場の西端にそびえ立ち、七階建てで、赤褐色のギョリュウ壁が築かれており、てっぺんの部分の仏堂建築物は金色に輝き、その下には大きな石を積み上げた白色の壁である。ポタラ宮は、世界に名を馳せる雄大な建築物である。今ではユネスコ(国連科学教育文化機関)の「世界遺産リスト」に組み入れられている。(写真・陳宗烈)

  • ポタラ宮の彫塑――ソンツェンガンポの塑像(1978) 

    写真はポタラ宮にある彫塑――ソンツェンガンポの塑像である。仏教が中国に伝えられてからすでに2千年の歴史があり、中国に非常に大きな影響を及ぼしてきた。西暦5世紀以降、 仏教はトバン(チベット)に伝わった。しかし、正式に伝来したのは、ソンツェンガンポの時代と見るべきである。当時、 仏教はインドと、中国の漢族が住んでいた地域の2つの方面から伝わって来たものであり、ソンツェンガンポはネパールのチゾン王女と唐王朝の文成王女を嫁として迎え、彼女たちはそれぞれ仏像をたずさえてきたので、ラサにはチョカン寺、ラモチェ寺という2つの寺院が造られた。 (写真・陳宗烈)

     
     

  • 文成王女の塑像(カラフルな塑像)(1978)

    写真はポタラ宮にある文成王女のカラフルな塑像である。『チベット王統記』の記載によると、文成王女がチベット入りした時、唐の皇帝は彼女に数多くの嫁入り道具としてお釈迦さまの12歳頃の等身仏像1体、貴重な宝物、書籍 ──仏教の経典360巻、建築と工芸品の技術書60余種、病気を治療するための処方と医療器具400余種および農作物と野菜の種などを贈った。文成王女はチベット入りした後、チベット族の人たちに土地を耕し、穀物などの作物を栽培し、河川の落差のあるところに水力によって動かす臼(うす)を据え付け、それによってハダカムギやその他の穀物をひいて粉にすることを教え、また酒の醸造や建築などの先進的な技術を教えた。王女はまた侍女と一緒にチベット族の女性たちに紡織や刺しゅうなどを教えた。王女はトバン経済と文化の発展のために大きく貢献した。

    西暦 649年、唐の高宗皇帝が即位し、ソンツェン・ガンポは直ちに唐朝宰相の長孫無忌に書簡を送り、「天子(皇帝)は即位されたばかりであるが、もし臣下に忠実でないものがいるならば、軍隊を率いて国のためにそれを討伐してもよろしい」と伝え、さらに金や銀、真珠・宝石15種を献上し、宰相にそれを唐の太宗皇帝の霊位の前に供えるよう頼んだ。唐の高宗皇帝はソンツェン・ガンポを「駙馬都尉」(王女の夫が専任する侍従武官)、「西海(チベット)の郡王」に封じた。唐朝とトバン(チベット)が婚姻関係を結んでから、ソンツェン・ガンポおよびその後の後継者はいずれも唐の皇帝とは甥とおじさんと称呼し合う間柄になった。この歴史的事実は漢族とチベット族の関係がとっくに非常に密接なものであったことを十分に裏付けている。

    文成王女は仏教の敬けんな信者で、博識多才の女性であった。王女はトバンの仏教を発展させるため、人夫や職人を組織して土木工事にたずさわらせ、ラマルチンラカン(つまりラモチェ寺)を築造させた。王女はチベット族の人々に心から敬われ、チベット族の歴史学者は王女にツォイべイム(ハスの花)というチベット族の名前を付け、それは美しくて純潔な人という意味であった。チベットの民間ではさらに多くの文成王女と関係のある感動的な物語と詩歌が伝わっており、チベットの地方劇の中での伝統のある芝居『文成王女』はとりもなおさずこの傑出した女性をたたえたものである。

    王女はトバン(チベット)で約40年間暮らし、厚遇されつづけるとともに、トバンの人たちに心から尊敬された。そして西暦680年に病死した。

    チベット族の人たちは文成王女を偲び、多くの宮殿と寺院には王女の塑像が祭られている。

  • ポタラ宮にあるネパールのチゾン王女の塑像(1978) 

    ポタラ宮にあるネパールのチゾン王女の塑像(1978)(写真・陳宗烈)

     

     
     

  •   ポタラ宮の周辺でぬかずいて祈願する信者たち(1956)

    ポタラ宮の周辺でぬかずいて祈願する信者たち(1956)(写真・陳宗烈)

  •  ラサのチョカン寺(1978)

    チョカン寺はチベット語では「ズウラカン」といわれ、本来の意味はお経を保存する殿堂ということである。これはチベットで最初の仏教の寺であり、西暦7世紀に築造されたものである。言い伝えによると、古代においてはこの一帯は沼沢であった。チベット王ソンツェン・ガンポのネパール人の妃チゾン王女はここにお寺を築造させ、彼女が故里からたずさえてきたミンジュドジ仏像(つまりお釈迦さまの8歳頃の等身塑像)を祭りたいと思ったが、施工は何度もうまく行かず、昼間築いた壁は夜になると崩れてしまい、今日築き上げたと思うと翌日は崩れてしまい、王女はそれのために非常に落胆した。その後、文成王女が長安からトバン入りした。チゾン王女は文成王女が仏の教えに詳しいばかりか、天文・地理(学)、陰陽八卦、建築物設計にも通じていると聞いて、彼女に教えを請うた。文成王女は喜んでチゾン王女と協力し合って、ついにこのお寺を完工させた。チョカン寺は平面の配置の方式で、内庭に廊下が付く3階建ての建物で、構造的には梁、柱、アーチ、装飾のある天井板を取り入れ、梁、柱、方柱、枠に飛天、人物、鳥・動物と花卉・草などの装飾があり、彩色絵画、浮き彫り、石刻の絵画と彫刻の技法は豪放そのもので、力がみなぎり、中国の他の地域の多くの寺院建築物とみたいで、建築の面ではネパール、インドのいくつかの芸術様式をも吸収したものである。本殿周囲の廊下の配置された殿の中にはさまざまな彫刻が安置されており、例えば釈迦殿入り口のカマチの上方の横木、入り口周辺の木彫はとりもなおさずシリーズとなった仏陀の物語図である。殿の廓の最初のひさしと重なるひさしの間に、108の獅子・伏せた動物と人間の顔の獅子の木彫りが並べてある。まくらひさしの装飾物である人間の顔の獅子の彫像は、中国の建築芸術の中ではまれに見るものである。

    チョカン寺の「ジョカン殿」の南側廂殿の中には、ソンツェン・ガンポ、文成王女とチゾン王女の像が祭ってある。それぞれ殿の壁には壁画がたくさんあり、年代的にもかなり古いもので、ほとんどが明かりの煙にいぶされて黒ずんでいるとはいえ、それでもトバンの古代絵画のきわめて生き生きとした、精緻で美しい姿を見て取ることができる。そのほかに、チョカン寺にはさらに西暦7世紀いらいの数多くの典籍、書類、楽器などの貴重な文化財が保存されている。清の乾隆皇帝が金の瓶によるくじ引き制度を実施するために詔書を出して下賜した「金のベンバ瓶」もその中に秘蔵されている。チョカン寺は全国重点文化財保護指定を受けており、『世界遺産リスト』にも組み入れられている。(写真・陳宗烈)

  •  法会をしている僧侶たち

    法会をしている僧侶たち(写真・陳宗烈)

  •  ラサのラモチェ寺(1978)

    ラサのラモチェ寺(1978) ラサのラモチェ寺は、チベット語では「ギャダラモチェチョラカン」といわれ、ハンホゥ神が変身した経蔵寺という意味で、「ラモチェ」と略称されている。ラモチェ寺はチョカン寺以北約800メートルの所に位置し、敷地面積は4000平方メートル。7世紀の中葉に、トバン王朝はチョカン寺を築造する同時に、このラモチェ廟もつくり、その設計と施工はすべて文成王女が自ら主宰したのであり、唐からはせ参じた漢族人職人がそれにたずさわった。ラモチェ寺とチョカン寺は同時に着工され、同時に完工し、同時に開眼を行った。ラモチェ寺の正門は東向きで、王女と随行の人たちの遥か彼方の故郷のお年寄りたちへの思いがこめられていた。この寺は唐の建築様式と規格をまねて造られたもので、主な建築物は入り口、経堂、仏殿の3つの部分に分かれ、周りは転経回廊で、回廊の壁には宗教物語の壁画がたくさんある。1694年いらい、毎年のチベット暦2月になると、いつもここで5世ダライラマの円寂を記念する祈祷法会が催された。

    著名なラサ上密院もラモチェ寺の中に設けられ、これはゲル派(黄教ともいわれる)の僧侶が密乗(秘教の考え)を修得するところである。上密院の経典に深く通じたラマ僧がラモチェ寺の住職を兼任した。ここで修行する僧侶は「ラマジュバ」と称された。そして経典を修了したあかつきには、ガンデン寺のシャズェ法王に昇進する機会に恵まれる。

    このほか、ここに来て修行した僧侶の中には数多くの中国のほかの地方の漢族の僧侶と外国の僧侶もいた。

    ラモチェ寺とチョカン寺はいずれも西暦7世紀いらい保存されてきた文化財であり、ラモチェ寺の最初の規模はチョカン寺とほぼ同じであったが、のちにラモチェ寺は何度も破壊をこうむり、もとの建築物はほとんど姿を消し、20紀50年代の中期に、作者が目にした寺の建築物の多くは明代(1368-1644)以後に再建されたものである。(写真・陳宗烈)

     
     

  • 金のベンバ瓶(1959) 

    金のベンバ瓶(1959)(写真・陳宗烈)

  •  ポタラ宮にあるチソンデツェンの塑像(1978)

    チソンデツェンの時代に、トバン(チベット)を非常に富み栄えた。このチベット王は武功を尊び、かつて長期にわたってシルクロードにある安息の4つの鎮(町)を占領したばかりか、甥が挙兵しておじさん(母親の兄)を攻め、公然と唐の「安禄山・史思明の反乱」に乗じて唐の都の長安城を攻め落とした。 唐史の中にこのような記録があり、『敦煌版のトバン歴史文書』の中にも、トバンの大将軍ザダルゴンが「精鋭部隊を率いて都に攻め込み、都は陥落し、唐の皇帝は逃れ、新しい君王を立ててからトバンの 精鋭部隊は帰っていった」という描写がある。ラサに石刻の方尖碑1基があり、碑文はザダルゴンの戦果を記載しており、この石碑は今でもポタラ宮広場の北東隅に立っている。

    西暦775 ─787年に、仏教を信仰するチソンデツェンはインドのリェンホァセ大師をチベットに迎えて仏の教えを伝えてもらうとともに、自ら主宰してチベット最初の正真正銘の仏陀寺、つまり仏陀、仏の教え、僧侶という三大要素をもつサンイェ寺をつくった。

       
  •  サンイェ寺(1987)

    サンイェ寺(写真・陳宗烈)

  •  レプン寺の線香とろうそく(1987)

    レプン寺の線香とろうそく(写真・陳宗烈)

  • 僧侶たちを率いて読経する「ウォンズェ」(1957) 
    レプン寺のツォチェン「ウォンズェ」(読経を率いる僧侶)は仏教経典講義場で僧侶たちを率いて読経している。伝昭大法会(モランチェンム)に出席した僧侶たちは、毎日必ず6回読経しなければならない。写真はチョカン寺の南側にある「スムチュラ」広場で催された法会であり、レプン寺の「ウォンズェ」の読経の声は重厚で低く、彼らのほとんどは特別の訓練を経たものであり、声は非常に高らかで、合唱隊のバスの声のようである。(写真・陳宗烈)

  • レプン寺の「ツォチェンシェオ」(1957) 
    「シェオ」は一般に鉄棒ラマといわれる。レプン寺の「ツォチェンシェオ」は大きな権力をもち、5世ダライラマと7世ダライラマが制定した教規に基づいて、ふだん寺院の治安状況を点検し、戒律を実行し、僧侶たちの経典の勉強を監督・検査している。写真はレプン寺の「ツォチェンシェオ」とその「ゲヨ」(侍従)。(写真・陳宗烈)

  • バゴ街で神を乗り移らせるネチュン護法(祈祷師)(1957) 

     バゴ街で神を乗り移らせるネチュン護法(祈祷師)(1957)(写真・陳宗烈)

 
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