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第一部『蒙頂山に源を発す』
  ·   2016-05-17
タグ: 雅安;茶;社会
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古代文明遺跡が点在する神秘の北緯30度線。「雨城」と呼ばれる四川省雅安は、この線上に位置する。

雅安は「雨」で知られている。連綿と降り続く雨が、この街と緑の大地を潤してきた。蔵茶はこの地で生まれた。千年以上も前から続く蔵茶の物語も、ここから語り起こそう。

蒙頂山。又の名は蒙山。雅安市名山県に位置する。蒙山の名は、年間を通して雨に覆われることからつけられた。海抜約1440メートル、1年を通して雨と霧、雲に覆われることが多く、年間降水量は2000ミリ以上、曇りか雨の日が200日を超える。平均気温は約13度。古人はいみじくも、「十日に一日の晴れなし」と記した。蒙頂山の自然環境は、茶の栽培にとりわけ適している。千数百年にわたって、緑茶、黒茶、黄茶、紅茶、青茶の栽培が盛んな蒙頂山は、中国で最も有名な茶文化の発祥地と称えられている。

「揚子江心の水、蒙山頂上の茶」(水は揚子江の真中の水、茶は蒙山頂上の茶が良い)。千数百年にわたって、蒙山茶はこう賛美されてきた。蒙頂山と茶との縁は、紀元前53年まで遡る。

史料によると、紀元前53年、前漢の薬農、呉理真が、蒙山の山頂で野生の茶の薬用効能を発見した。呉理真は蒙頂五峰の山間の土地に茶の木を7本植え、茶の栽培の先河を開いた。

清代の『名山県誌』はこう記している。「この七本の茶の木は二千年枯れることも高く成長することもない。その茶葉は細長く、味は甘みがあるがさっぱりとしており、色は黄にして碧く、茶杯の中を覆うような香りがいつまでも漂う」。後に、呉理真が植えた茶の木は「仙茶」と呼ばれ、呉理真も「茶祖」と称された。そして蒙頂山は「世界茶文化の聖山」と称えられるようになった。

霧に煙る山間部に、呉理真が茶を植えた時に用いた石小屋が今も残っている。歳月が昔日の面影を奪いはしたものの、移り行く時の流れの中で、長い歴史の重みを感じさせる。そして歴史の重みは、文化の奥深さと悠久さを伝えている。

天盖寺。蒙頂山登山の際は必ずここを通る。前漢の茶祖、呉理真が茶の栽培の折に庵を結んだ場所にある。創建は三国時代。その名は「女媧補天」の伝説に由来する。女媧は蒙頂山の上空を通り過ぎる時、力を使い果たして大地にその身を横たえた。その際に残した漏斗からは、甘露がいつまでも滴り落ちた。こうして「雨は蜀の天から漏れ、その中心は蒙山」と言われるようになった。この地に建てられた廟には、「漏天之蓋」の意味が込められた。時は瞬く間に過ぎ去り、往事は煙のごとく消え去っていく。8000平方メートルの広さを持つ天盖寺は、当時参詣の人で賑わった。ここでは、評茶をつかさどっていた。今では、境内を取り囲む12本の銀杏の古木だけが寺を見つめている。

蒙頂山には今も龍泉古井という井戸が残っている。又の名を蒙泉井、甘露井という。石の欄干に2匹の龍が生き生きと刻まれている。呉理真がここで水を汲み茶の木に播いたと伝えられる。現地の県誌の記載によると、この古井戸は雨が降ってもあふれず、日照りでも枯れず、この井戸の水で入れた茶は格別美味なのだという。

史料の記載によると、唐の玄宗天宝元年(742年)から、蒙頂茶は朝廷の祭祀と皇帝の飲用に供される献上茶となり、1911年に清王朝が倒れるまで続いた。

「蒙頂山貢茶は全て山上の各寺の僧侶が管理し、細かく分業されていた。千仏寺は茶の植え付け、浄居寺は茶摘み、智矩寺は製茶、天盖寺は評茶を行った」。現地県誌にはこう記されている。この記載から、仏教寺院との関わりが蒙頂山茶に神秘感を与え、一般の茗茶を凌駕していたことが分かる。

甘露石室、皇茶園、甘露井、古碑銘文など、茶に関連した文化財は、蒙頂山の二千年余りの茶文化を見つめてきた歴史の証人である。

やがて月日は過ぎ、茶の栽培を始めた前漢から二千年余りが経った。中国の悠久の茶文化において、蒙頂山という世界茶文化の聖山の意義は深遠だ。では、千年の間チベットへと運ばれた「蔵茶」との間には、どのような関わりがあるのだろうか?

史書によると、二千年余り前の前漢の時代から、蒙頂山茶はチベットへと運ばれていた。唐代になると、チベット族の茶葉への需要が高まるにつれて、茶馬通商、茶馬貿易の興隆により通商の道が開かれた。つまり、この時期に四川雅安からチベットへと至る、本当の意味での茶馬古道が通じたのである。後に、五代、宋、元、明、清の時代を通じて、蒙山茶は常に、歴代王朝とチベット族、回こつ、羌族などが、政治、経済、文化交流を強めるための重要な絆であった。

後に、唐の皇女、文成公主が吐蕃国王ソンツェン・ガンポに嫁ぐと、茶馬古道の茶の交易量は急増する。チベット族が住む青海チベット高原は、高地で低温である上に空気も薄く、雪山や草原が多い。こうした特殊な環境に住むチベット族は、主に牧畜を営み、牛肉や羊肉、乳製品を食べ、青稞麦という麦の粉とバター茶をこねた「ザンパ」を主食としている。『滴浸雨露』には、「生肉や青稞麦は茶がなければ消化できない」という意味の記述がある。チベット族は健康のために、油っこさをなくし消化を助ける飲み物で食事のバランスを取る必要があったのだ。

チベット族は茶を愛飲したが、酷寒のチベットでは、茶を栽培することはできない。茶は四川省や雲南省から運ぶしかなかった。この需要があったからこそ、茶馬古道の交易は千年以上続いてきたのである。

茶馬古道の役割は、「茶と馬の交易」という言葉で形容するのが最も適切だろう。

こうして、中国の歴代王朝は茶を運び続けることで、戦略物資の馬と交換し、辺境の安定を図ったのだ。

前漢の茶祖、呉理真はおそらく思いもしなかっただろう。自分の植えた7本の茶の木が、中国の茶文化の長い歴史の源となり、千数百年にわたるチベット族と漢族との友好を醸成しようとは。そして経済が発達し民族が団結した今日、蔵茶が民族融合の新たな美談になろうとは。

「北京週報日本語版」2016年5月20日

第一部『蒙頂山に源を発す』--pekinshuho
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