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【日本の中に見る中国】第1回 博多 聖一国師と謝国明
文・写真=須賀努  ·   2022-08-12  ·  ソース:人民中国
タグ: 中日関係;歴史;中日交流
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ところで聖一国師の留学費用はどこから出たのか、そしてなぜ径山万寿禅寺へ行ったのか、そして帰国後承天寺創建は誰が行ったのか?といった様々な疑問があった。そこに宋の大商人、謝国明なる人物が浮かび上がってきた。今回博多へ行き、大楠様に出会った。博多駅にほど近い場所に謝国明の墓と伝えられる一角があり、謝国明に関する石碑と共に、そこには大きな楠がある。博多綱首(船団を所有する大商人)として、鎌倉時代初期の博多を舞台に宋との交易で活躍しているが、実はその生没年も分からない人物だ。

謝国明の墓(博多)

謝国明の墓の楠(博多)

1233年入宋を目指して国師が博多へ来ると国明はすぐに帰依して私邸に滞在させ、同時に火災に遭った径山万寿禅寺に多大な支援を行い、再建させ、1235年国師が径山万寿禅寺に着く時には全てが整っていた。勿論入宋費用も彼から出ていたと思われ、国師は強力なパトロンを得たことになる。商人国明はある意味で先行投資をしたのだろうが、国師の人柄に深く共鳴、信頼した証でもあろう。 

1241年に国師が帰国する際には、筥崎宮領を購入して承天寺を建て、国師を迎え入れた。国師がもたらした物がその後の日本にとって重要なのは言うまでもないが、謝国明なくして、聖一国師のその後もなかったのではないかと思われるほどの貢献ぶりである。また貧民救済などにも尽力し、地元でも戦前まではかなり慕われていたとも聞く。 

謝国明の博多での活躍についてもっと知りたいと思ったが、資料が乏しい彼の人生には不明な点が多過ぎる。資料がないとその歴史は埋もれていき、人々から忘れられていく。ただ国明と国師の繋がりを見ていると、今ほど交通が便利でなかった800年前の方が、実は日中が身近だったと感じ、個々人が強い信頼関係を結ぶことの重要性が見て取れる。 

人民中国インターネット版 2022年8月10日

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