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徳化で美を焼く 陶芸家の水出勝さん
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本誌記者 成瀬明絵 · 2019-05-27 · ソース:北京週報 |
タグ: 泉州;陶磁器;中日交流 | 印刷 |
自分の求める美しさを持つ焼き物を「偶然に生み出させる」、それを一生懸けて追及している人がいる。福建省泉州市徳化県で天目や青磁などを焼き続けて約14年になる、陶芸家の水出勝さんだ。「私がやっている天目は同じ窯で同じように焼いても同じものはできません。偶然の要素が強いんです。それをできるだけコントロールして納得のいく作品を焼くために、今でも毎日テストの連続です」と生き生きと語る。
水出勝さん(撮影・本誌記者張巍)
憧れの地・福建省へ
水出さんは長年京都で作陶してきたが、50代も後半を過ぎたところで友人の会社から徳化で和食器の指導に当たらないか、という話が舞い込んだ。赴任場所は水出さんの憧れの地、福建省だった。「福建省には建窯といった有名な窯がありますし、また日本の陶器の学校で見せられるのもそこで焼かれた天目茶碗などでしたので、私は中国の陶器に対してものすごい憧れがあるわけです。また一度は離れた天目に、また挑戦したいとも思っていました。友人からの打診があった時には子供も手を離れて夫婦二人だけでしたし、それも私が好きな建窯の近くに行けるとのことだったので、二つ返事で承諾しました。ええっ、本当に中国に行けるの、と」。
しかし憧れの地に降り立った水出さんは、自身のイメージとの大きなギャップに驚くことになる。徳化は茶器が有名ではあったが、当時ロクロを回して茶器を作る職人はほぼおらず、そのほとんどが機械生産だった。いくつか稼働していた窯では安価で取引されるようなポットなどが大量に焼かれており、「非常にもったいないと思った」と水出さん。その場所を借りて手作りの焼き締め(釉薬を使用していない焼き物)を作ったところ、釉薬の知識がなくても焼けるということもあり現地であっという間に流行した。若者が次々と工房を構えて独立し、德化県柴焼(中国語で焼き締めを指す)協会も発足した。当時手作りのものにあまり価値がないとされていた徳化に手作りの考え方を持ち込んだ水出さんの力もあり、徳化の陶磁器製食器産業は徐々に発展していった。
愛着深まる街で
水出さんの新たな生活はこのようにスタートしたが、新天地ではその後も苦労の連続だった。信号もなかったような当時の徳化では日々の生活で慣れないことも多く、また仕事では中国の職人との考え方の違いなどに悩む時期もあったが、それでも何とか徳化で作陶を続けてきた。数年後には所属していた日本の会社が撤退することになったが、最終的に水出さんは徳化に残ることを選んだ。
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