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中日の架け橋になった倉田彣士氏を偲ぶ
刘幸宇  ·   2016-11-02  ·  ソース:
タグ: 留学生;中日両国;中日交流
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中日法曹界の交流活動においても数々の論文を発表するとともに中国法律界の新しい動向を紹介する講演活動を行ってきた。

このように、倉田氏は熱心に中日両国の間で有形無形の絆を強くしてきた。しかし、形ある橋梁の必要性がより切実であることは言うまでもない。偶然の一致かも知れないが、倉田氏が上海に赴き交流協定に調印した1988年、当時の建設省(現国土交通省)は一大国家プロジェクトとして大学からそう遠くない明石海峡に巨大な吊橋の架設工事を始めた。倉田氏は時々中国の友人にこの橋のことを「長崎と上海との間にこのような大橋ができたらどんなにか素晴らしいことでしょう!」と感慨深げに語られ、中日両国の間に、激しい嵐にも耐え得る友愛関係の実現を期待されていた。

2008年秋、倉田氏が教育分野で卓越した功績を立てられたため、天皇陛下より受勲された。私は大学の職員らが自発的に開いた祝賀夕食会に参加した。その後の数年間、倉田氏は大学の名誉教授として昼食会に出席する度に、私の勤務部署に来られ、留学生らの近況を尋ねてくださった。

その後、倉田氏は足が弱くなられ、めったに外出されなくなった。2015年夏、私は友人とともに同氏の米寿を祝う夕食会を計画したが、あいにく同氏はご体調が優れず、出席をご辞退された。今年2月、私はお見舞いの品を送ると同氏から電話で感謝の言葉をいただいた。同氏の声は弱々しく、私は思わず健康を心配した。

不幸なことに6月4日、私の心配することが冷酷な現実となった。私たちがとても悔やむのは、米寿祝賀の夕食会を倉田氏が逝去されたことで永遠に実現できなくなったことである。

倉田氏の在りし日を偲ぶ度に私は思わず、陶渊明の詩「其人虽已殁,千載有余情」(あの方が亡くなられても、永久に人々の脳裏に焼きつくでしょう)を思い出す。倉田氏の中国人留学生への至れり尽くせりの親切さとご指導は忘れられない。一衣帯水の地にある中日両国間で力を尽くして友好交流の架け橋を作った倉田彣士氏の立派な業績は永久に私たちの脳裏に焼きつくであろう。 (文•写真 刘幸宇)

「北京週報日本語版」2016年11月2日

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