ホーム >> 中日交流 >> 本文 |
中日の架け橋になった倉田彣士氏を偲ぶ
|
刘幸宇 · 2016-11-02 · ソース: |
タグ: 留学生;中日両国;中日交流 | 印刷 |
夕方、「倉田彣士氏が亡くなられました」との訃報の電話が入り、私は深い悲しみに沈んで胸を痛めた。夜、私は眠れず何度も寝返りを打った。倉田氏と28年間の付き合いが次々と脳裏に浮かんできた……
私と倉田彣士氏とはご縁があり、それは1989年錦秋に遡る。当時、私は研究員の身分で来日。大阪国際空港ロビーを出ると、思いもよらず、神戸学院大学国際交流課本多課長と小畑氏が出迎えに来てくれた。神戸へ向かう道中、課長らが「倉田学長は上海で留学されていたことがあるので、中国人留学生に特に親切だ」と話をしてくれた。その日の夕方、私は大学の寮で中国人留学生らに会い、「倉田学長のおかげで寮費や光熱費などは全部無料だ」などの話を聞いた。私は思わず感激した。翌日、学長室に伺い、倉田氏とお会いした。私たちは初対面であったが、古くからの知り合いのように意気投合し、膝を交えて中国語で歓談した。
その後の約二年間の留学生活で私は倉田氏の中国への親近感を肌身で感じた。同氏は毎年、入学式と卒業式の式辞で、『論語』と漢詩を引用され、感無量な面持ちで上海での留学生活を振り返られ、「上海での留学で私の人生が変わりました。私は上海が好きです。上海は私の第二の故郷です」と話されるのが常であった。また、数多くの留学生の身元保証人を引き受けられ、奨学金や留学生寮の充実に向けてもご尽力されていた。
1994年春、私は神戸学院女子短期大学に着任した。1996年春、倉田氏は神戸学院女子短期大学学長に就任された。それ以降、私たちは更に親交を深めた。その後の七年間に、私たちは7回も共に上海、北京、長春を訪れた。杭州の西湖で観光船に乗り、観光したり、蘇州の寒山寺で鐘突きをするなどした。行く先々で、同氏の中国文化への崇拝と尊敬を感じ取れた。
倉田氏は上海に親友が数多くいたため、私は常に同氏の事務室に出入りし、文通を手伝っていた。中国の友人が来訪する度に、同氏は喜びを顔にあふれさせ、親戚が来たようにもてなされていた。公私にわたり私にも親身になってくださった。
1996年秋と2000年初冬の二度、同氏は私の父親と長春で懇談したことがある。お互いの国で留学した経験がある二人が過ぎ去った歳月を回想し、語りながら乾杯した風景は今でも記憶に新しい。2004年、私の父親が亡くなった際に、倉田氏は『忘れがたい会見』と題した偲ぶ書を執筆され、それは『劉育新記念文集』に収録されている。
倉田氏はなぜこんなに中国に親近感を抱いているのか。私は疑問に思い調べ、はじめて倉田氏の非凡な人生の歩みを知った。
1926年、同氏は奈良県で誕生された。中国古典文学を愛読する父親の薫陶を受け、幼い頃から漢詩を好まれた。1943年4月、中国文化への憧れを胸に抱かれ、上海にある東亜同文書院大学にご入学され、日本文化の源流である中国文化に強烈なカルチャーショックを受けられたという。
同氏のご訪中歴は25回余りにのぼる。短ければ3~5日間、長ければ一カ月ほど滞在されることもあった。倉田氏は上海に行くことを「帰省」と言われ、また、自らを「老上海」(上海を熟知する地元の人)と称されている。上海を熟知され、何処に行かれても、半世紀前の町の名前と老舗をすらすらと暗唱することができた。また、上海弁がご堪能で、夢の中でさえ中国語を話されるほどで、その名に恥じない中国通でいらっしゃる。
歳月は流れ、1986年7月、倉田氏は神戸学院大学学長にご就任後、「神戸学院大学学報」で「日中両国は一衣帯水の隣邦であり、友好交流の歴史が長い。まず、中国の大学との交流計画を立てるべきである」と表明された。そして、同年上海国際問題研究所日本研究室の学者を客員教授として招聘され、また、上海の学者を薬学部研究員として迎え入れられた。1990年夏、上海交通大学は両大学交流への貢献を表彰するため、倉田氏に対し名誉教授の称号を授与することを決定した。同年10月末、夫人と長男ご一家とともに上海で開催された授与式に出席され、初めて中国で講義を行なわれた。その後の10年間に、上海の高等教育機関及び天津社会科学院等で十数回の講演を行なわれ、さらに上海市普陀区少年宮に寄付を二度されている。そのような偉業が評価されたためか、1992年4月には、華東政法学院から名誉教授という栄えある称号も受けられている。
中日両国が子々孫々に至るまで友好な関係を保てるよう、倉田氏は訪中する中国研修セミナーの主催を提案されていた。1992年9月に初めて同セミナーの実施が実現し、60名の学生が日本から中国に赴き、中国文化を体験した。それ以来、神戸学院大学のこの中国研修セミナーはずっと続いている。1993年と1995年には、倉田氏自身もゼミの学生を率いて訪中された。その後、1996年神戸学院女子短期大学学長に就任され、それと同時に中国人留学生の受け入れに着手された。その後10年間に亘り、同短期大学は400余名の留学生を受け入れた。
2次のページへ |
シェア: |
|
このウェブサイトの著作権は北京週報社にあります。掲載された記事、写真の無断転載を禁じます。
住所 中国北京市百万荘大街24号 北京週報日本語部 電 話 (8610) 68996230
京ICP备08005356号-4 京公网安备110102005860号