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菓子作り伝え3代 老舗「復茂餅家」100年の物語(二)
本誌記者 馬力  ·   2017-09-20
タグ: 老舗;菓子作り;文化
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 元教師の3代目が現代的管理とチェーン展開に乗り出す 

5歳の時から父と祖父が菓子を作るのを見ていました。その頃は生活が貧しくて、側についていたのはおこぼれにあずかるため。でもその頃見たり聞いたりしたことや、小さい頃から菓子に思い入れがあったことも、後になって職業変えをした原因ですね」。意外なことに、無形文化財伝承者である郭継光さんは最初から家業を継いだのではなかった。 

2代目の郭意得さん(左から3人目)、3代目の郭継光さん(左から4人目)、郭継光さんの息子の郭旭さん(左から2人目)。3代がともに菓子の配合を研究する。(馬力 撮影)

1979年、17歳の郭継光さんは福清師範専科学校に入学。2年後に卒業すると、家から45キロ離れたある中学校の英語教師になった。当時はちょうど改革開放の風が中国の大地を吹き渡っており、復茂の菓子も新たな発展の機会を迎えていた。 

郭継光さんは言う。「文革から1970年代末まで、中国には個人経営はありませんでした。私が就職する頃はちょうど国全体が改革開放の時代を迎えていました。初任給40.元のうち15元を父に渡し、菓子作りに使う道具を購入しました。父と祖父にもう一度家業を復活させてほしかった。復茂の菓子はその時からまた庶民の生活に戻ってきたのです」。 

中国の改革開放以降、国は個人経営を奨励した。再び陣容を整えた郭継光さんの父と祖父は「復茂餅家」を再開させた後、伝統菓子を残しながらも、ニンジンケーキ、ココナッツボールなど新商品を開発。発売するとすぐに大人気になった。復茂の菓子は品質がよく値段が安かったし、老舗でもあったので、営業再開後の「復茂餅家」は非常に繁盛した。「父と祖父が作る菓子は、自分たちの店で販売するほか、市内の小売店にも卸していました」。1980年代末になると、復茂餅家は誰もが知っている店になり、商品は莆田市内やその周辺の農村でも売られるようになった。 

復茂餅家が本当の意味で大きく発展したのは郭継光さんの代になってからだ。中学校の英語教師はどのようにして愛する職業を捨て菓子の商売に身を投じたのか?「学校から家に戻るたびに、高齢の祖父が骨を折って働き、退職した父が朝早くから自転車で菓子を市内の小売店に運んでいるのを目にしました。長男として、その光景を見るのはなんとも言えない気分でした」。 

1991年、祖父が病気で亡くなりました。亡くなる前に私の手を握り、私に復茂餅家を継いでくれと何度も言いました。一緒に3年近くも暮らした祖父が私のもとから去っていこうとしている。家族を失う辛さは想像できるでしょう。当時私は心の中でひそかに誓いました。先代たちの夢を続けていかなければ。復茂餅店を莆田中に広めよう」。 

郭誠猷さんが亡くなってからしばらくして、郭継光さんはあちこちに菓子作りを学びに行き、当時国内の焼き菓子作りの技術が最高だった広州華美烘焙学校で学んだ。この広州行きは復茂のその後の発展に大きく影響することになった。郭継光さんは最新の菓子作りの技術を学んだだけでなく、「媽祖平安餅」や「復茂白蓮蓉月餅」といった新たな種類の商品を開発したのだ。最も重要なのは、この広州行きで郭継光さんが見聞を広め、考えが開けたことだ。 

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