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鼓浪嶼の歴史的建築物が紡いできた物語
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本誌記者 馬力 · 2017-07-14 · ソース: |
タグ: 鼓浪嶼;歴史的建築;文化 | 印刷 |
先ごろ開催された第41回世界遺産委員会で、「鼓浪嶼(コロンス島)国際歴史的居留地」は中国52件目の世界遺産に登録され、中国の世界遺産の数は世界一となった。本誌記者は鼓浪嶼を訪れ、歴史的建築文化にまつわる物語を聞いた。
中国と西洋文化が混ざり合い厦門の独特な建築様式を形成
鼓浪嶼は九龍江河口に浮かぶ、面積1.88平方キロメートルの島だ。厦門(アモイ)市内とは鷺江海峡を隔てて向かい合う。
アヘン戦争終結後、中国南部の沿海に位置する鼓浪嶼は国際交流の重要な窓口となった。鼓浪嶼は「共同租界」となり、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、日本などの13カ国が次々と領事館を設立し、多くの外国人が島に集まるようになった。
統計データによると、鼓浪嶼には1200棟以上の大小様々な歴史的建築物がある。それらはまるで中国近代文化の縮図ともいえ、アジアと西洋文化がこの小さな島で出会い混ざり合った過程を示している。
鼓浪嶼世界遺産申請歴史研究家の呉永奇さんは次のように語る。「世界の多種多様な文化が鼓浪嶼に集まり、建築装飾において厦門の独特な様式が形成されました。このような様式は世界中でも唯一無二のものです」。
まさにこの多様性こそが、鼓浪嶼が世界遺産として登録された最大の理由なのだ。
「海天堂構」苦難の中で奮起した館の主
鼓浪嶼の歴史的建造物は、「海天堂構」抜きには語れない。「海天堂構」はフィリピン華僑の黄秀烺さんと同郷の黄念憶さんが1920年から1930年にかけて建てた建築群で、総面積は6500平方メートルある。呉さんいわく「海天堂構」は鼓浪嶼の世界遺産申請の際、非常に重要な要素だったとのことだ。
「海天堂構」の前身は鼓浪嶼の「万国倶楽部」だ。「万国倶楽部」は1873年に建設が始まり1876年に完成した。「『万国倶楽部』は大変立派で、構造は宮殿と同じように設計されました。当時の鼓浪嶼、ないしは国内屈指の建物だった。」と呉さんは言う。
1859年に福建省晋江で生まれた黄秀烺さんは、家庭が貧しく若い頃にフィリピンへ出稼ぎに行くことを余儀なくされた。20年間の血の滲むような努力の末フィリピンで莫大な財産を築き、1899年に帰国して鼓浪嶼に居を構えた。1920年に「万国倶楽部」を購入し、中国建築で重んじられる左右対称の建築法に則り、元々あった建物の隣に、同じように1棟建築した。その後2棟の間を中軸として、両端と中間の位置にも新たに3棟建てた。「海天堂構」は今日の鼓浪嶼において、建物が左右対称に配置されている唯一の建築群となったのだ。
中国建築と西洋建築の特徴を併せ持つ「海天堂構」だが、鼓浪嶼の世界遺産申請の際にも小さなエピソードが生まれたという。呉さんが教えてくれた。「建築の専門家が『海天堂構』へ視察に訪れた際、この様式は既存の分類のいずれにも当てはまらないと頭を抱えました。最終的に厦門装飾様式として登録したのです」。そして厦門装飾様式は、鼓浪嶼の世界遺産申請の重要な要素となったのだ。
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