「十七カ条協定」締結・チベット平和解放60周年を前に、『中国チベット』誌は中国共産党中央統一戦線工作部の朱維群常務副部長にインタビューを行った。以下は同インタビューの要約である。
平和解放でチベットの中国からの分離は永遠に不可能に
――今年5月23日は『中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放の方法に関する協定』締結60周年です。この歴史的出来事をどのように評価していますか?
チベットの平和解放は中国共産党が指導した中国人民解放事業の重要な出来事であり、中華民族の100年余りにわたる国家統一の闘いにおいても重要な出来事だった。
1950年10月、人民解放軍はチャムド戦役(昌都)を発起し、少数反動派のチベット上層部が企図するチベット解放拒絶の夢を粉砕し、ダライ・ラマ14世をリーダーとするチベット地方政府は北京に代表を派遣して協議を行わざるを得なくなった。1カ月近くの困難に満ちた協議の結果、有名な「十七カ条協定」が締結され、チベットは平和解放された。
チベット平和解放の意義は、まず帝国主義と少数反動派のチベット上層部のチベットを中国から分離しようとする画策を粉砕し、祖国大陸部の完全解放と統一を実現したことにあると考える。知っての通り、チベットは古来から中国の一部分であり、元代から中央政府はチベットを直接的かつ効果的に行政管轄してきた。近代に入ってからは、西側帝国主義勢力がチベットを手に入れようとした。英帝国主義は1888年と1904年の2回にわたってチベット武力侵略を行い、2回目はラサを占領した。しかし彼らは同時に、チベット地方政府と民衆は中国中央政府の権威に服従しており、武力だけではチベットを中国から切り離すことはできないと気づき、少数のチベット上層部に親英勢力を育成して「独立」を企てさせる方法に転じた。英帝国主義に侵略される前、チベット族の言葉にはもともと「独立」という概念はなく、これは完全に西側の植民主義者が強制的に植えつけたものだった。人民解放戦争の勝利を目前にして、米・英帝国主義と少数反動派のチベット上層部は最後の機会を逸してしまうと考え、一連の分離主義事件を起こし、「チベット独立」をある種の「現実」にしようとした。しかしチャムド戦役の勝利と「十七カ条協定」の締結で、人民解放軍は平和裏にチベットに進駐し、彼らの幻想を徹底的に打ち砕いた。チベットの平和解放は中国人民が100年余りにわたり国家統一と民族の尊厳のために流した血の犠牲の結果であり、これでチベットの中国からの分離は永遠に不可能となった。
チベット平和解放の意義のもう1つの側面は、8年後にチベットで民主改革が行われ、封建農奴制度から現代の社会主義制度に入るための前提条件を作ったことである。「十七カ条協定」はチベットの実際状況に配慮し、特に「チベットの現行政治制度に対しては、中央は変更を加えない。ダライ・ラマの固有の地位および職権にも中央は変更を加えない」、「チベットに関する各種の改革は、中央は強制しない。チベット地方政府はみずから進んで改革を進め、人民が改革の要求を提出した場合、チベットの指導者と協議する方法によってこれを解決する」という条項を結んだ。この2条項を中央は実行した。しかし、少数のチベット上層部の考えは、少し時間を置いてから改革するのではなく永遠に改革しないというものであったため、武装反乱を起こした。これもまたチベットの民主改革の到来を早めた。チベット平和解放という序幕がなければ、後の怒濤のごとく展開された民主改革という一幕はなかった。もし平和解放でなかったとしたら、中国共産党と解放軍がチベットに入った際、奴隷のように酷使され虐げられてきたチベットの民衆が党の政策をより理解し改革を強く望むこともなかったはずだ。客観的に見て、平和解放から民主改革までの8年は、民主改革のために思想の基礎、民衆の基礎、幹部の基礎、ひいては軍事闘争の基礎など各方面の条件を整えたのである。
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