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日本の伝統工芸の危機と希望を反映する「うちわ」
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· 2017-03-31 · ソース: |
タグ: 日本;伝統工芸;中日交流 | 印刷 |
工業化時代において、伝統工芸は「衰退」の危機にさらされるもので、「匠の精神」を誇りとする日本であっても、工業化のあおりを受けている。日本の伝統工芸は今、興味を示す人がおらず、職人も減り、後継者問題に直面している。うちわは日本の伝統工芸の代表的な存在で、熊本県の山鹿や香川、京都はその三大産地で知られている。山鹿市の豊前街道は、最盛期には16軒の店でうちわが生産されていたというが、今は「栗川商店」だけになってしまった。(文:呉雨倫。文匯報掲載)
明治22年に創業した「栗川商店」は128年の歴史を誇り、今は4代目の栗川亮一さんが経営している。竹と和紙でうちわを作る同店の技法は江戸時代以来のもので、手で扇いで風を起こすために使われる。第二次世界大戦以降、日本は高度経済成長期に入り、扇風機やエアコンが普及し始めたため、うちわの需要は激減し、人々の生活からほとんど姿を消してしまった。栗川商店でうちわを作って25年になるという職人・下河広介さんによると、「うちわという日本の伝統工芸品を全く知らない子供もいる」という。
うちわは30ものの工程を経て完成し、最盛期には各工程に1人ずつ職人がいたという。従事する人が減少するにつれ、1人が複数の工程を担当するようになり、製作の工程を習得するには5年かかるという。うちわに使われるのは3年ものの真竹のみで、竹筒の周囲の寸法は30センチ以上。竹の縁は光沢が出るように処理され、全ての工程が手作業だ。
日本は伝統工芸の保護が進んでいるほうだが、「多くの工芸が急速に消滅している。もう再現できない技術も多い」という。栗川商店では最盛期には年間500万本ものうちわが生産されていたというが、今は20万本にまで激減した。手づくりうちわや手づくり灯篭、鉄を打って作った農具などは、1940-50年代の日本にはたくさんあったものの、一世代で衰退し、今はほぼ消えてしまった。「一人でも多くの人に伝統工芸の美しさを知ってもらうというのが、神様が私にくれた仕事なのかもしれない。私たちは、伝統工芸を受け継いでいくために、一生懸命努力を続けている」と語る下河さんの笑顔からは、大きな責任感も感じられた。
一人でも多くの人に買ってもらい、伝統工芸を守るために、栗川商店はうちわの値段を抑え、無地の普通のうちわは1000円で販売している。うちわ業が危機に瀕していることを知り、社員に配るためにたくさん注文して、伝統工芸を応援しようという現地の企業もある。それでも、栗川商店の売上額は年間わずか3億円と、全盛期の3分の1にすぎないという。
伝統工芸品の需要が減少しているほか、栗川商店も後継者問題に直面している。日本の伝統工芸はかつて、その技術を家族に伝えることを非常に重んじていた。しかし、それでは後継者問題が起きやすいため、伝統業界も少しずつ外部の人にもその扉を開け、若い人が技術を学べるようにするようになっている。河堤大介さん(36)は、日本の伝統工芸に強い興味を抱く若者の一人。熊本市で演出の経営管理の仕事をしていたものの、昨年4月にそれを辞め栗川商店の門を叩いた。「子供のころからアートや創作が好きだった。うちわの製作も好き」と河堤さん。現在、栗川商店でうちわを製作しているスタッフ5人は、下河さん以外は全員30歳前後の若者だ。
近年、日本の社会では自国の伝統や文化に再び目が向けられるようなり、若者が貴重な伝統工芸を知る良い機会となっている。「日本は地震や津波などの自然災害が多い。災害が起きるたびに、多くの人が家族や文化の継承の大切さを思い知らされる。災害が起きると、伝統の大切さが身にしみて分かる」と下河さん。ある意味、社会にとって災害は悪いことばかりではないようだ。(編集KN)
「人民網日本語版」2017年3月31日
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