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日本の国宝級映画監督・山田洋次が中国を訪問し学生と交流
  ·   2017-01-04  ·  ソース:
タグ: 映画監督;山田洋次;中日交流
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2016年年末、日本の巨匠・山田洋次監督(85)が北京電影(映画)学院を訪問し、大勢の学生を前に、貴重な経験や会得したことを語った。また、16年に日本で大ヒットした「家族はつらいよ」の中国リメイク版のロケ現場も訪問した。リメイク版は黄磊監督がメガホンをとっている。(文:張嘉。北京青年報掲載)

「映画が完成するたびに不安に襲われる」

山田監督は庶民の目線から作る人情映画を得意とし「喜劇の山田」と呼ばれるなど「日本人の心の代弁者」として活躍。監督作品は85作品に達している。「母と暮せば」(15年)は、第89回アカデミー賞外国語映画部門に日本代表としてノミネートされた。

山田監督は「これまでに80以上の作品を製作してきたが、どの作品も完成した日は不安でいっぱいになる。完成した瞬間には、『ちゃんとできたのだろうか。もう一度、一から作り直したい』と感じる」と話す。

北京電影学院の学生を前に、山田監督は、「映画の製作に近道はない。学生のうちに名作映画を研究し、ゲームをしている時間の一部を映画鑑賞に使ってほしい。監督になれば、映画の製作に完全に没頭しなければならない。そして、製作グループの全員がそれに打ち込み、映画を好きにならなければならない。敬虔な気持ちで、すばらしい映画になるよう祈らなければならない。自分の映画に対してそのような敬虔な姿勢を示し、どの瞬間もそのようにしていれば、最終的に素晴らしい化学変化が起きるだろう」とアドバイスした。

「監督になったのは運命。監督という職業が僕を選んだ」

山田監督は、「学生時代、日本にテレビ局や出版社がたくさんあり、映画会社もとても多かった。そのような時代だったので、映画製作会社の入社試験を何度も受けた。そして、たまたま松竹に入社できた。当時、新聞社やテレビ局の入社試験を受けていれば、記者になっていたかもしれない。だから、僕が映画監督を選んだというよりは、映画監督という職業が僕を選んでくれたと言える。そのため、初めからあまりに大きな目標を持ち、それが達成できなければ立ち直れなかったかもしれない。毎日、一歩一歩、こつこつとしなければならないことをしていれば、目標というのは向かうから近付いてくるもの」と、「映画監督になったのは運命」だったことを語った。

山田監督は、「中国には何度も来たことがあるが、年齢的にも今回が最後になるかもしれない」と、聞く者に淋しさを感じさせる話題にも言及。13年に著名な映画監督の大島渚監督が亡くなり、お通夜に参列した山田監督は、「同世代の監督が亡くなって寂しい。またひとり消えていったとガッカリしている」と語り、04年に世界の映画界に貢献した映画製作者に贈られる黒澤明賞(東京国際映画祭主催 )を受賞した際には、「受賞が僕の映画人生の終わりを意味しているならとてもさみしい。黒澤監督は83歳の時も現役でがんばっていた。僕もこれから良い作品をたくさん作れると信じている」と語った。

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