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「80後」王学博監督が描く回族の内面世界――『清水裏的刀子』
尉紅琛  ·   2016-09-28  ·  ソース:
タグ: 映画祭;中国映画;文化
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監督とプロデューサーの間で 

王監督はなぜこのような大衆的とは言えない題材を監督処女作に選んだのだろうか。これについては、9年前から語り起こさなければならない。

2007年、東北師範大学ラジオ・テレビ脚色演出専攻の3年に在学中だった王監督は、同級生の石彦偉さんから『清水裏的刀子』という短篇小説を薦められた。幼い頃から西北地方に興味のあった王監督は西海固特有の民俗や宗教、地域特性に魅せられ、この作品をショートフィルムに撮りたいという考えが芽生えた。2人の貧乏学生は意気投合。資金もなく、俳優もおらず、食事や住まい、交通費さえもままならない彼らだったが、それでもネットに募集の知らせを出し、志を同じくする仲間をなんとか集めた。

「プロデューサー、美術指導、大道具、俳優など、必要な人材はすべて募集を出した。募集の書き込みには、ムスリムを題材とした映像作品製作と民族文化の発揚を意図するという思想を主に掲げた」。王監督は当時ブログにこう記している。製作は順調に進み、30分近くのショートフィルムが完成した。後に、この作品は第7回北京電影学院国際学生映像作品展の上映作品に選ばれた。

小説を気に入っていた王監督は、この作品を長篇映画にしたいと考えていた。大学卒業後の2年間はショートフィルム撮影の経験を積み、2010年、正式に撮影開始準備に着手した。そのために西海固で生活を体験し、現地の最も貧しい村で農民たちと生活をともにした。10カ月の生活体験で、彼は多くの創作素材を手に入れることになった。

すべての準備が整い、間もなくクランクインという時になって、彼は監督として最初のハードルにぶつかる。

主役の馬子善を演じるのは現地で半年かけて探した老人だったが、プロの俳優ではないこの老人は、撮影を前にして気後れしてしまい、撮影が始められなくなってしまったのだ。しかも現地の人々の気風から、一家を演じる俳優は現実の生活でも家族である必要があり、これが映画撮影をさらに難しくした。完璧主義者の王監督は強要もしたくなかったし、それにもまして作品を台無しにしたくなかったため、撮影は中止せざるを得なかった。

『清水裏的刀子』の撮影に挫折した後、彼は長春に帰り、昼夜逆転した日々を送った。旧ソ連やラテンアメリカの文学作品を読みふけり、不条理でファンタジックな色彩を感じ取った。そこで、この時期の経験を映画にしようとしたが、結局は精神状態が思わしくなく、形にならなかった。後に起業して会社を作ったが、それは自分のやりたいことではなかった。

やはり映画と関わる事がしたいと考えた王監督は、映画プロデューサーを目指す。この時、彼の才能はようやく発揮される機会を得た。2014年、耿軍と組んだ『錘子鎌刀都休息(The hammer and sickle are sleeping)』が第51回台湾金馬賞最優秀創作ショートフィルム賞を受賞。翌年、ペマツェテン(万瑪才旦)監督と組んだ『塔洛(タルロ)』がベネチア映画祭にノミネートされ、さらにこの作品が今年の第1回イタリア中国映画祭で最優秀劇映画賞を受賞した。プロデューサーとして多くの成功を手にしたものの、心の底にまだひっかかっているものがあった。未完成のままになっている『清水裏的刀子』だ。

ベネチアから戻った後、張猛監督の励ましの下で、王監督は5年前の夢を再び追い始めた。プロデューサーとしての経験は監督としての仕事と映画の投資家探しの面で助けになり、何人かの投資家が脚本を見る前にあらすじを見ただけで契約してくれた。香港のイー・トンシン監督も脚本と王監督の構想に心を動かされ、映画製作に加わった。王監督は感激を覚えると同時に、ますます多くのプレッシャーも抱えることになった。

5年が過ぎ、当時の村にも非常に大きな変化があり、以前よりも開放的になった。村民も映画の撮影を拒まないようになっていた。王監督の言葉を借りれば、「今回はようやく天の時、地の利、人の和を得ることができた」のである。

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