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北京週報>>特集>>世界反ファシズム戦争勝利70周年
中国人民抗日戦争勝利70周年
>>中国で抗日戦争に参加した外国人
 
中国南西部と国外を結んだ補給航路「ハンプコース」

 

C-46輸送機

1942年3月、日本軍はビルマ(現ミャンマー)の首都ラングーン(現ヤンゴン)を占領した。中国に支援軍用物資を輸送する主な補給線だったビルマ公路は遮断された。中米両国は補給航路を切り開く必要に迫られた。それが有名な輸送ルート「ハンプコース」(駝峰航線)である。1942年5月から1945年8月にかけて、連合国からのほとんどの支援軍用物資は、中米両国のパイロットが操縦する飛行機で、インドのディンジャン飛行場からヒマラヤ山脈東麓を越えて昆明に輸送された。ハンプコースによって、計80万トン余りの戦略物資が中国に輸送された。墜落、行方不明になった飛行機の数は中米両国合計で609機、死亡または行方不明になったパイロットは1500人余りであった。

ハンプコースで用いられた飛行機の主力機種はC-46、DC-3、C-47、C-53などの輸送機だった。戦争状況下であったため、連合国の輸送機が日本軍に気付かれて不意打ちされないようにするため、連合国の輸送機は通常離陸後に地上との無線連絡を取らなかった。また連合国の輸送機は日本軍の戦闘機に攻撃されやすく、山間地帯で飛行機が故障した場合や悪天候の場合に、緊急着陸する場所を見つけるのが難しかった。そのため、通常の輸送機と異なり、機体には深緑の保護色が塗られ(航路のほとんどは原始林地帯であったため)、すべての乗組員はパラシュートを装備していた(一般的に輸送機のパイロットはパラシュートを装備していない)。これも「ハンプコース」の大きな特色の1つであった。

「北京週報日本語版」2015年8月6日

 

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