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「タンカは我が命」

2000年、ユムチュ・ロウ氏は康定師範高等専門学校を卒業し、炉霍に戻ってタンカの創作を続けた。ユムチュ・ロウ氏によると、その頃は炉霍のタンカ創作力を向上させ、タンカという古い芸術を伝承する上で大衆的基礎を打ち立てるために、タンカ協会を設立するつもりだった。「その頃炉霍で最も有名だったタンカ絵師のバデン(巴登)氏、ダワ(達娃)氏、ゲナ(格納)氏を訪ね、みなが集まって創作できるかどうかと尋ねると、冗談だと思われ、きっぱりと断られた」。

それにもかかわらず、ユムチュ・ロウ氏は気落ちすることなく、5、6人の意気投合する仲間とともにタンカの創作をはじめた。2005年、杭州中国美術学院の邱志傑教授が学生を連れて芸術実習のため炉霍にやってきた。「当時の県文化館館長が私に声をかけてくれて、邱教授と一緒に郎卡傑のタンカ芸術を詳細に研究した。邱教授は私の作品を見てしきりに賛嘆した」とユムチュ・ロウ氏は語った。

2006年6月、ユムチュ・ロウ氏は邱志傑教授から、「第2回中国宋荘芸術祭に参加し、展示会で販売するため自分のタンカ作品を持参してほしい」との電話を受け取った。「その頃は特に収入源もなく、宿泊代や食事代、交通費を出せないと言うと、邱教授は全部負担すると言ってくれた」とユムチュ・ロウ氏は言う。

こうして、ユムチュ・ロウ氏は炉霍の山水と人文の風情を描いたタンカ作品を持って宋荘芸術祭に参加した。「最初の日、炉霍高原を描いた作品を掛けると、外国人と北京のお年寄りが購入したいと言ってきた。最終的には、北京のお年寄りに売ることにした。『いい年になっているから、もう高地に行くことができなくなり、絵画作品から趣を感じるしかない』というお年寄りの言葉に感動したからだ」。そしてその時、ユムチュ・ロウ氏はタンカの本当の価値を感じ、自分の存在価値を感じていた。 

 

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