一、凶悪野蛮な虐殺の暴挙 1937年12月13日、日本軍は南京攻略後、闇雲に一般市民と武装解除した元中国軍人を掃討、虐殺した。城外の村から城内の主要幹線道路、路地まで、また避難区から教会、寺院にいたるまで、いたるところで虐殺を行い、元兵士、市民、老若男女、妊婦、児童を問わず、僧侶、尼僧さえも見逃さなかった。殺人の手段は射殺、斬殺、刺殺、生き埋め、焼き殺し、溺死などさまざまで、殺人競争までも行い、悪事の限りを尽くした。集団虐殺されたのは19万人余り、のちに慈善団体に埋められた散り散りになった遺体は15万人余りという統計がある。殺害された人間は合わせて30万人以上に達した。日本軍の凶悪な暴行は、人々を激怒させるもので、言語を絶するほどであった。これはまさに、人類文明史上もっとも暗いページであった。
二、女性に対する日本軍の暴行
日本軍は大虐殺を行う際、女性に対して人の道をはずれた強姦を行った。老若を問わず、妊婦も見逃さなかった。多くの女性は強姦されたあと日本軍に銃殺、刺殺されたり、遺体を傷つけられたりした。南京が占領されてから1カ月のうちに、市内だけで2万件の日本軍による強姦事件が発生した。南京にとどまっていた外国人は日本軍を「獣の集団」となじった。
三、日本軍の略奪、放火、破壊の暴挙
日本軍は南京を攻略した後、狂気じみた略奪をおこなった。いたるところで、住宅、公的機関、商店、倉庫など、余すところなく奪い去った。金銀財宝、貴重品、書画古董、乗り物、ひいては難民の食糧、病院の被服、民家の家畜にいたるまで、洗いざらい奪い去られた。外国人の財産も見逃さなかった。
日本軍は略奪のあと、火をつけて焼き払った。南京城には黒い煙が立ちこめた。救出しようとする市民はその場で殺された。その昔、繁栄を謳歌した南京は、廃墟へと姿を変えた。
四、遺体の埋葬と処理
日本軍が大虐殺を行ったあとには、数十万柱の遺体が南京市内外に転がっており、罪証を隠すため日本軍に焼却されたり揚子江に投げ込まれたりした遺体を除いて、慈善団体や個人、傀儡(かいらい)政府が埋め、処理した遺体が数多くあった。
世界紅卍字会南京分会は43,123柱、中国赤十字会南京分会は22,371柱、崇善堂は112,267柱、同善堂は7,000柱余り、回族の埋葬隊は400柱と、わずか五つの慈善団体だけで18万5000柱以上の遺体を埋葬した。
被害者の死体を正視するに忍びなくて、一般市民も遺体を埋葬した。湖南省出身の商人の盛世征さん、昌開運さんは自腹を切って、人を雇い上新河付近で28,730柱の遺体を埋めた。南京城の南に住んでいる苪芳縁さん、張鴻儒さん、楊広才さんらは中華門外で7,000柱余りの遺体を埋めた。
傀儡政府も日本軍の暴挙を隠し、道路の清掃や疫病防止のために遺体を埋めていた。傀儡の下関区役所は下関、三汊河で3,240柱、傀儡第一区役所は南京城の南東で1,233柱の遺体を埋葬した。傀儡の南京市政公署衛生局は1939年1月、中山門外霊谷寺と馬群で収集した3,000柱余りの遺体を霊谷寺の東に埋葬し、傀儡市政公署督弁の高冠吾は被害者のために「無名孤魂碑」を立てたが、碑文の中には遺体を埋めた経緯が詳細に書かれている。
「北京週報日本語版」 2007年12月
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