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北京週報>>特集>>南京大虐殺70周年>>南京大虐殺の史料  
南京防衛戦と南京陥落

 

1937年12月1日、日本大本営は「大陸命第8命令」を下達した。華中方面司令官の松井石根が上海派遣軍と第10軍団を指揮し、海軍と協同して南京を攻略するという命令であった。松井石根は命令を受けると、第101師団を上海に駐留させたほか、全兵力を集中して三つのコースに分け、直接南京に進撃させた。敵の狂気じみた進撃に対して、蒋介石は唐生智を南京衛戍司令長官に、羅卓英、劉興を副司令長官に任命し、12個師団10万人の南京守備部隊を編成した。

12月5日から、双方は南京周辺地域で激戦を繰り返した。日本軍の猛攻のため、12月8日にかけて、東は句容、湯山から竜王山まで、南は湖熟、淳化鎮から秣陵関までの地域と西南の板橋、大勝関などの地域は、相次いで日本軍に占領された。南京は次第に包囲され、戦闘は城郭内の陣地まで迫った。

12月9日、松井石根は飛行機で南京上空から投降勧告書をばら撒いた。10日午後1時、投降勧告に失敗した日本軍は、紫金山、楊坊山、光華門、雨花台、水西門、上新河、賽公橋(現在の賽虹橋)などに進撃。南京守備部隊が各城門の要害の地で、頑強に抵抗を続けたため、日本軍は11日に城内に入れなかった。12日になって、日本軍は雨花台を占領した後、重砲をもって中華門を砲撃した。中華門、水西門の近くは部分的に突破された。当日、日本軍はまた水西門、通済門、光華門、紫金山を猛攻した。5時、唐生智は南京守備部隊に撤退を命令。

南京守備部隊は勇猛な抵抗をおこない、大きな犠牲をはらった。紫金山を防衛する教導総隊大隊長羅雨豊、楊坊山を防衛する第48師団283連隊の一大隊長単喆淵、中隊長孫卉考、光華門を防衛する第87師団259旅団の旅団長易安華、連隊長謝家珣、雨花台を防衛する第88師団262旅団の旅団長朱赤、第264旅団の旅団長高致嵩、賽公橋を防衛する第51師団302連隊の連隊長程智、水西門を防衛する少校副連隊長劉暦滋、大隊長胡豪、太平門を防衛する第156師団参謀長官姚中英、南京を防衛する憲兵司令長官蕭山令らは壮烈な戦死を遂げた。

12月13日未明、日本軍第6、第114師団はまっさきに中華門、水西門から入城し、第9、第3師団の先頭部隊は光華門から入城し、第16師団は中山門と太平門から入城し、第13師団の山田分遣隊は烏竜山と幕府山から和平門に侵入した。午後2時、日本海軍第11分遣隊が揚子江を遡り、下関に到着。午後4時、国崎分遣隊が揚子江の北岸に沿って浦口に到着。ここで、南京は完全に陥落した。

「北京週報日本語版」 2007年12月

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