◇決死の覚悟で臨んだ日中国交回復交渉◇
市川市は千葉県の北西部にあり、江戸川を挟んで東京都に接する都心から20キロメートルという首都圏内の都市。人口は46万9千人ほどで2014年に市制80周年を迎えた歴史ある文教・住宅都市として発展してきた。郭沫若氏が1928年から10年間、市川市内に住んだことがあることから、郭沫若氏の出身地である中国四川省楽山市と1981年10月、友好都市を締結し今年33周年を迎えている。2004年には郭沫若氏の住んでいた旧宅を移築・復元して「郭沫若記念館」をオープンして中国との友好交流を続け、中国とは縁浅からぬ市だった。
講演では、1972年9月の日中国交回復時の様子から話を始めた。会場には60歳代前後の人たち50人ほどが参加した。中国との国交回復当時は20歳前後の人たちだったので、記憶している人も多かったようだ。しかし、そのときの厳しい交渉内容についてはあまり知っている人はいなかった。当時は、日中戦争で夫や兄弟、親戚の人たちを失った中国の人たちがたくさんいた。日本でも中国との国交回復は時期尚早として反対する勢力が強くあった。このような状況の中、田中角栄首相と大平正芳外相は、日中の国交を正常化するという強い決死の覚悟で北京に赴いた。
北京に到着した当日、周恩来首相主催の晩餐会で田中首相が挨拶の中で述べた「ご迷惑発言」が中国側を激怒させた。「わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明するものであります。」と田中首相は挨拶した。この挨拶の「中国国民に多大のご迷惑をおかけした」は、中国語で「我国给中国国民添了很大的麻烦,…」と訳された。
「あれだけ多くの中国人民に災禍を与えておいて“添了麻烦”という言葉ではあまりに軽すぎる」と、中国側は猛反発した。中国語の訳は日本外務省の役人によるものだった。日本語に忠実になったばかりに、田中首相の「ご迷惑」という意味を文字通り中国語に訳したため、田中首相の意図する発言は伝わらなかった。
結局、日中共同声明でこの部分の日本語は「…日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。…」とし、中国語では「…日本方面痛感日本国过去由于战争给中国人民造成的重大损害的责任,表示深刻的反省。…」となった。
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