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北京週報>>特集>>斎藤文男氏のブログ  
◇“日々是愉快”だった12年間◇
 

◇「邯鄲の夢」のような一瞬◇

日本では数年ごとに勤務地を移動する転勤人生だった。1個所に12年間も滞在したのは南京が初めてだ。この地で干支を一巡したわけだが、それほど長い期間とは感じなかった。授業では決まった教科書がないので、資料を作るのに時間がかかった。慣れないこともあり、新聞記事の原稿を書く以上に大変だったが、自分で作った教材を使ってやる授業は日々新鮮で楽しかった。

卒業公演会で和服を着て踊る日本語学部の学生

現役の時に書いた最後のコラム「記者日記」は、新聞記者の喜怒哀楽を報告したもので、多くの学生が感動して新聞記者の仕事を理解してくれた。南京に来てから古巣の新聞に書いた青蔵鉄路開通の「天空列車」のカメラルポや、日中文化交流の必要性を訴えた「記者の目」なども、新聞記事を書いた筆者から直接話を聞けることに学生は興味を示していた。NHKテレビ紅白歌合戦のビデオを使った懐メロや演歌の歌詞とともに当時の社会背景の説明では、近現代の日本を理解するのに役立ったようだった。

「文七元結」「時そば」「寿限無」など落語のビデオを見ながら、日本人の職人気質、物の考え方、価値観などの説明をしたら、落語にも興味を示し、学年末の演芸会で落語を演じる学生も出てきた。長い名前の「寿限無」を中国語に訳して、日中両国語で暗記をさせた。日系企業の入社試験の面接の時にこの寿限無をやったら「“オチがない”から必ず合格する」と話したら、学生は仲間の宴会で披露したり友人の結婚式で演じたいという人もいた。

時には教室で二胡やハーモニカを吹きながら日本の唱歌や中国の「草原情歌」を歌っていると、田舎の小さな分教場で教えている映画の中の主人公の先生のような感じになることもあった。

定年退職して「中国の大学の先生になる」と聞いた同業他社の記者仲間からは、「お前みたいなのが、大学の先生なんかになっても3カ月もたないぞ」と言われた。仲間の予想に反して、12年間は邯鄲の夢のごとく楽しく一瞬に過ぎていった。学生が評価する「優秀教師」に3回選ばれ、2009年から2年間は南京市対外文化交流使者の“文化交流大使”を務め、10年には南京市の「第一回金陵友誼賞」を頂戴した。年々歳々学生は変われど、歳々年々楽しく愉快に過ごすことができたので、及第点の60点以上はもらえるのではないかと、今はほっとしている。

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