~ウェンナン先生行状記21~
斎藤文男(南京大学日本語学部専家)
クラスの班長が遠慮がちに持ってきたノートの中に書かれたメッセージや授業の感想からは、学生の新鮮な驚きや未来への希望が感じられ、「教学相長ず」を体験している。ニュース記事の読み方で「行間を読む」ことについて話をした時、学生は意味がよくわからなかったようだった。「書かれていない行間や、記事の文章が終わった後に筆者の言いたいことがある」と言ったら、多くの学生が不思議そうな表情をしていた。
◇ 「行間を読む」ことに新鮮な驚き◇
日本に留学して、日本の新聞を教材にした「読解」の授業を受けたR・Sさん=男性=は、教科書では得られない最新の日本事情を把握できたようだ。私は毎回、その日の朝までにあったニュースに目を通して授業の予習をする。教室ではこのニュースの経緯や関連する項目を説明し、なぜ今日のニュースになったのかを説明してきた。R・Sさんはそれが、日本で受けた「読解」の授業に共通するものがある、と書いていた。私の授業では「行間を読む」ということに新鮮な驚きがあったようだ。
<日本で身に着けた新聞を読むという習慣は、今でも持ち続けているけれども、これまでは字面的な意味を読み取るだけだった。「行間を読む」との教えから、これまでの新聞の読み方は間違っているのではないかと反省した。……記事を書いた記者はどのような立場で、何を訴えようと考えて書いたのかを分析するように努力している。>
記事の写真についても、私は写真そのものについてより、これを撮った記者の立場についていつも話をしてきた。この現場に到着するまではかなりの道のりがあったこと。どの場面を切り取るか。現場のどこから写真を走稿したのか、など写真を見ながら考える。記事の原稿でも、取材した内容をどのように表現するか。どの部分を割愛するか。割愛した部分をどうすれば、読者に推察してもらえるか。締め切り時刻に追われながら、原稿を書いてきた体験を話し、記事を書いた記者の立場や考えを推察しながら読むことが必要である、と訴えた。R・Sさんにはそれが新鮮な発見だったようだ。
「眼光紙背に徹す」という言葉がある。文面の文字の解釈だけでなく、書かれている奥にある深い意味まで理解することである。このことを説明するため、私は「青蔵鉄路」が開通した2006年の夏、この列車に乗ってラサに行ったルポ記事(2006年9月7日、毎日新聞「見る写真、読む写真」eye欄掲載)を教材にした。写真を中心にした世界の出来事のニュース面だが、私は記事の最後を次のように締めくくった。
「……青蔵鉄路は野生の世界を切り裂くように開通した。ここに棲む動物や草花たちの生活サイクルを、できるだけ壊さないようにするのが、後から入ってきた人類の責務でもある。」
自然界の環境問題に配慮することが必要との訴えだが、天空に架けた列車が地元チベット族の人たちのためにも利益になることを願い、昔から住んでいる地元の人たちを、自然界の動植物に置き換えて書いたことを学生に話した。指摘されれば当然のように理解されるが、注意しなければ「環境への配慮が必要だ」と文字面だけの解釈に終わってしまうだろう。
高さ450メートルと2010年に完成した時点で世界7位の高さを誇った南京市の「紫峰大厦」と背比べをするヒメリンゴの花。世界に羽ばたく学生を想う。
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