国家公文書局のウェブサイトでこのほど、日本人戦犯・長島勤の中国侵略犯罪の供述書が発表された。これによると、1942年4月から1945年7月までに、長島は、「大小一五回ノ作戦討伐ヲ行ヒ殺害抗日軍人一六六〇名、平和人民九七〇名」「民房二二二〇間以上ヲ焼却破壊シ、抗日軍人九七〇名、平和人民二五〇名ヲ逮捕シ、糧食六〇〇〇噸ヲシマシタ。強制労役12万工日ヲ酷使シマシタ」という。
さらに「毎度ノ作戦ニテ殺害ノ方法ハ銃殺ノ外、刺殺、斬殺、斬首、爆殺、焼殺、絞殺、瓦斯殺等ノ極メテ残忍ナル虐殺手段ヲ執リタルモノ多クアリマシタ。又捕虜ヲ殺害シタコトモ屡々アリマス」と証言している。
長島の1955年5月の供述書によると、長島は1888年に埼玉県に生まれ、1938年12月に中国に赴き、華中派遣軍特務部部員に任じられた。1942年4月には日本陸軍第59師団第54旅団長に任じられ、1943年6月から1945年4月まで済南防衛司令官を兼任した。同年8月22日、朝鮮咸興で捕虜となった。
長島が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
1942年5月から6月まで山東省で、泰安・莱蕪・蒙陰作戦に部隊を指揮して参加し、「結果ハ殺人抗日軍人四〇名、平和人民二〇名、民房焼却破壊一〇〇余間デアリマス」。
1943年5月中旬には、部隊を指揮して「魯中作戦」に参加し、「結果殺人抗日軍人一三〇名、平和人民二〇名、逮捕抗日軍人三八〇名、民房焼却破壊20余間」。
1943年6月には、部隊を指揮して「東臨道作戦」(聊城県北方地域)に参加し、「結果ハ殺人抗日軍人六〇名、平和人民三〇名、捕虜二五〇名デアリマス」。
1943年7月から8月には、部隊を指揮して「十八夏南太行作戦」に参加し、「結果ハ殺人抗日軍人四〇名、平和人民三〇名、捕虜三〇名デアリマス」。
1943年9月、部隊を指揮して「三教堂作戦」(禹城、済陽、臨邑)に参加し、「結果ハ殺人抗日軍人六〇名、平和人民一〇余名デアリマス」。
1943年11月中旬から12月上旬には、部隊を指揮して「十八秋魯中魯北作戦」に参加し、「結果殺人抗日軍人三〇名余、平和人民一〇名余、兵舎焼却2棟、民房焼却破壊300余間」「掠奪糧食300噸」。
1944年3月から4月には、部隊を指揮して「十九春衣剿共作戦」(莱蕪、長清、暦城、斉河、章丘)に参加し、「結果ハ殺害抗日軍人二一〇名、平和人民七〇名、民房焼却破壊300余間」。
1944年6月から7月には、部隊を指揮して「十九夏衣山東作戦」に参加し、「結果殺害抗日軍人二七〇名、平和人民一六〇名、掠奪小麦五七〇〇噸」。
1944年8月から9月には、部隊を指揮して「十九夏山東作戦」に参加し、「結果殺害抗日軍人一二〇名、平和人民七〇名、逮捕平和人民二五〇名、掠奪花生油1000籠以上」。
1944年9月から12月には、部隊を指揮して「十九秋衣山東作戦」に参加し、「結果殺害抗日軍人一九〇余名、平和人民一一〇名、民房焼却破壊200余間」。
1945年1月から3月には、部隊を指揮して「二十春衣山東作戦」に参加し、「結果殺害抗日軍人四一〇名、平和人民二三〇名、民房焼却破壊三〇〇余間」。
1945年5月には、部隊を指揮して「秀嶺一号作戦」に参加し、「結果殺害抗日軍人八〇名、平和人民二一〇名、民房焼却破壊一〇〇〇余間」。
1942年4月から1945年7月まで、「大小一五回ノ作戦討伐ヲ行ヒ殺害抗日軍人一六六〇名、平和人民九七〇名」「民房二二二〇間以上ヲ焼却破壊シ、抗日軍人九七〇名、平和人民二五〇名ヲ逮捕シ、糧食六〇〇〇噸ヲシマシタ。強制労役12万工日ヲ酷使シマシタ」。
「毎度ノ作戦ニテ殺害ノ方法ハ銃殺ノ外、刺殺、斬殺、斬首、爆殺、焼殺、絞殺、瓦斯殺等ノ極メテ残忍ナル虐殺手段ヲ執リタルモノ多クアリマシタ。又捕虜ヲ殺害シタコトモ屡々アリマス」。
「一九四五年二月上旬、111大隊ハ私ノ命令デ行動中、東阿県馬家海子ニ於テ負傷員捕虜七名ヲ刺殺シマシタ。一九四二年七月、110大隊ハ莱蕪県九頂山デ瓦斯弾ヲ以テ平和人民老少十五名ヲ殺害(中略)シマシタ」。(編集MA)
「人民網日本語版」2014年7月8日
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