山西省左権県「遼県抗戦紀実収蔵館」では3日、山西省検察院の退職した検察官、王艾甫さんが見学者に対して抗日戦争(日中戦争)の歴史を説明する姿が見られた。中でも日本軍の中国侵略時期の様々な出版物が注目を集めていた。王艾甫さんによると、現在は王さんが整理した1931年の「九一八事変」から1945年の抗日戦争勝利までの抗日戦争の史実が展示されている。中国新聞網が伝えた。
王さんは1990年代から日本軍の写真集「支那画報」80冊以上を含む日本軍の中国侵略の「罪状の証拠」を集め始めた。写真集は30ページから36ページほどで、一部カラー写真を含む大部分はモノクロの写真だ。王さんによると、画報は日本・朝日新聞社が出版したもので、内容の多くは中国の都市を日本軍が侵攻した際の情景で、時期は1937年の「盧溝橋事変」から1945年の日本の降伏前にわたる。
王さんによると、上述の画報は北京、上海、南京、武漢、済南、海南島等を侵攻した日本軍の情景を記録している。画報の最終ページには「支那事変日誌」というコラムがあり、日本軍で毎日発生した重要な動態について記録している。
王さんは2009年、故郷の山西省左権県西関村に帰省して「遼県抗戦紀実収蔵館」を設立し、抗日戦争に関する実物や資料写真など1千点以上を展示した。王さんによると、5年間で「遼県抗戦紀実収蔵館」は抗日戦争の名将の子孫を含む学生や軍人、党政府職員などのべ約40万人を受け入れている。
王さんは2013年に脳血栓を患い、行動が不自由になった。王さんは自嘲気味に自分を「半人前」と呼ぶが、日本軍の中国侵略の証拠集めの妨げにはなっていない。ここ数年、王さんはコレクター仲間や骨董市などで、「九一八事変」や「南京大虐殺」等の事件を含む日本軍の中国侵略に関する新たな証拠を収集してきた。王さんは現在、これらの資料の整理に着手し、館の収蔵品を充実させようとしている。
1942年、日本軍が侵入してきた際、八路軍本部の所在地である遼県(後に左権県と改称)で八路軍副参謀長を務めていた左権将軍は包囲突破の際に銃弾に倒れ、八路軍の抗日戦争期間に犠牲になった最も等級の高い将校となった。
1943年、晋冀魯豫辺区政府は左権将軍を記念するために遼県を左権県と改称することを決定した。王さんの収蔵品の中にも晋冀魯豫辺区政府が発表した布告があり、落款と署名には当時、晋冀魯豫辺区政府主席の楊秀峰、副主席の薄一波、戎伍勝らの名前がある。
王さんによると、抗日戦争期間の左権県の民衆の貢献と犠牲は巨大だった。当時、県全域の人口はわずか7万人だったが、1万人が犠牲となり、1万人が入軍し、1万人が前線で支援した。左権県で「抗戦紀実収蔵館」を開設することは、第一に後の世代の人に歴史を銘記し平和を尊ぶことを伝えると共に、民間から多くの抗日戦争の実物を集め、整理することにある。「おそらく私の余生の事業になるだろう」。 (編集YH)
「人民網日本語版」2014年5月4日
|