その二、清政府の受け渡し代表の李経方は交渉で、いわゆる台湾の附属島嶼について、島嶼の名称を目録に列挙する必要の有無を問い、講和条約では澎湖諸島の範囲については経緯度が明記されているが、台湾附属島嶼については範囲が明記されていないことを指摘した。この時李の懸念の中心は台湾の附属島嶼を明確に列挙しなければ、後に福建省沿海の島嶼の帰属問題について中日間で紛糾が生じる可能性があることにあり、他の問題はまだ予想していなかった。だが日本側は列挙に賛成しなかった。日本側代表の水野遵は「島嶼名を列挙すれば、脱漏したものや無名の島があった場合の問題を避けがたく、日中いずれにも属さないことになり不都合だ」と指摘。「日本政府が福建省付近の島嶼を台湾所属島嶼と見なすことは決してない」と保証し、李の懸念は「杞憂だ」と述べた。こうして台湾及びその附属島嶼の割譲は極めて曖昧な表現の下で行なわれることとなった。
釣魚島問題の処理において日本政府が「優れていた」のは、清軍が敗戦するにあたり、馬関条約締結前に密かに釣魚島を沖縄県に編入したこと、公の条約においても「台湾全島及び全ての附属諸島嶼」の割譲との曖昧な表現を採用することで、台湾の全ての附属島嶼はすでにことごとく割譲されたとの理解を清政府官吏に生じさせ、釣魚島の領有権の移行に誰も注目しないようにしたことにある。このようにして中国は気づくことなく、抗議もせず、日本も後に釣魚島は馬関条約で割譲されたのではないと主張できるようになったのである。
馬関条約の表現の曖昧さのため、日本側は台湾の附属島嶼が釣魚島を含むか否かをあげつらうようになった。釣魚島がそれまで中国政府の管轄下にあり、かつ日本が条約締結数か月前に密かに釣魚島を占有したうえ中国側に告知しなかった以上、割譲された台湾の附属島嶼に釣魚島が含まれていたのは当然である。釣魚島は間違いなく中国に返還されるべきだ。カイロ宣言、ポツダム宣言、及びポツダム宣言の実行に関する日本の約束は、返還しなければならないという明らかな論理の鎖を形成している。だが日本側は、釣魚島はすでに1895年1月に沖縄に編入されたのであり、同年4月に締結された馬関条約には含まれないとしている。日本側のこの主張は、日本が釣魚島を合法的に占有できることを意味するのだろうか?実際にはそうではない。たとえ馬関条約について一方的な解釈をしたとしても、日本が中国が敗戦にあたり顧みる余裕のない機を利用して釣魚島を盗み取ったことは変えようのない事実だ。釣魚島の日本の版図への編入と甲午戦争に関連があることは明白な客観的事実であり、当時の日本人もこの関連を認めていた。かつて釣魚島の開発を申請した古賀辰四郎はこのように書いている。「明治27、28年の戦役で皇国が大勝した結果、台湾島は大国の版図に組み込まれ、尖閣列島も我々に属した」。釣魚島の領有権の変化が、まず日本の陰謀と窃取があり、次に不平等条約を通じて力づくで占拠した結果であったことがわかる。
従って、馬関条約についてどう解釈しようとも、我々は次のように言うことができる。「台湾及び澎湖諸島は日本が馬関条約の明文によって割譲させたものだが、釣魚島は馬関条約の曖昧な表現によって盗み取った、あるいは日本の一方的な閣議によって盗み取ったものであり、そのいずれであろうとも日本が甲午戦争を通じて釣魚島を盗み取った事実に議論の余地はない」。結論はただ一つ。「釣魚島の占有の継続という日本の企てには、いかなる合法性もない」。(編集NA)
「人民網日本語版」2013年5月24日
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