釣魚島(日本名・尖閣諸島)の領有権問題をめぐる論争において、日本政府は一貫して「日本が発見した時、釣魚島は『無主の地』だった。日本は国際法の『先占の原則』に基づき領土に編入した」との見解を振りかざしている。事実は本当にそうなのか?(文:王建朗・中国社会科学院近代史研究所研究員)
1884年から1885年にかけて、日本の沖縄県は釣魚島等いくつかの島々について秘密調査を行ない、「無人島」を発見したと主張した。いわゆる「無人島」との主張について、まず整理し、明らかにしなければならない。「無人」と「無主」は全く異なる概念であり、ある島に誰も居住していないからといって、「無主」であることにはならない。航海技術の未発達だった古代は言うまでもなく、航海業の十分に発展した今日でも無人だが有主の島は数多く存在するのであり、いっしょくたにして論じてはならない。
釣魚島は日本が「発見」する数百年も前から中国が発見し、命名し、かつ利用し、しかも海防体系に組み入れていた。1840年以降、中国は多事多難の時代に入った。幾重もの苦境に直面しながらも、中国は釣魚島の管轄権を依然維持していた。すでに公開された日本側資料は、日本はすでに中国が釣魚島諸島を発見、命名していたことを全く知らなかったわけでは決してないことを物語っている。1885年9月22日、西村捨三沖縄県令は山県有朋内務卿に宛てた釣魚島への国標建設に関する秘密報告で、これらの無人島について「中山伝信録に記載の魚釣台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一のものであるはずだ。清朝の冊封使船はこれらの島嶼を詳悉するのみならず、すでに名称も付し、琉球航海の目標としていた。従って、釣魚島に日本の国標を建設すべきか否かについて懸念があり、政府の指示を仰ぎたい」と述べた。
10月9日、山県有朋内務卿は井上薫外務卿に意見を求めた。井上は10月21日、山形への返書で「清国はすでに島名を付しており、近頃清国の新聞等は我が政府が台湾近傍の清国所属の島嶼を占拠しようとしている等の風説を掲載し、我が国に猜疑を抱き、しきりに清政府に注意を促している。こうした時に、公然と国標を建設する等の措置に出ては、清国の疑惑を招くに違いない。このため当面は港湾の形状並びに土地物産開拓見込みの有無等を詳細に報告させるのみに止め、国標を建てて開発に着手するのは、他日の機会に譲ればよい」と指摘。さらに「今回の調査の件は官報並びに新聞に掲載せぬべきだろう」と特に強調した。
11月24日、西村は再び山形に書簡を送り指示を仰いだ。「同島に国標を建設する件は、清国と全く無関係ではなく、万が一摩擦や衝突が発生した場合、いかに処理すべきかが極めて重要であり、具体的な指示を仰ぎたい」。これに対する井上と山県の共通の意見は「国標の建設は清国が関係し、状況は複雑であり、当面建設しない方が良いようだ」というものだった。
|