二、明代に中国が最も早く国際関係において釣魚島の帰属の境界線を引いた
中国と琉球の通交は明代に始まった。洪武五年(1372年)正月、明朝の使臣・楊載が詔書を携えて琉球に派遣された。当時琉球へは中国の航海者が代々伝えてきた「針本」を頼りに釣魚島列島経由で行くほかなかった。釣魚島の命名と利用は政府の確認を得て、1370年代に確定してきた。その後300年近くの間、明朝は琉球に25回使節団を派遣し、琉球は明に300回余り朝貢した。清朝もこうした関係を踏襲し、釣魚列島を経由した中国・琉球両国の頻繁な交流は清の光緒五年(1879年)に琉球が日本に併呑されるまで500年の長きにわたり続いた。
明朝の琉球冊封使の残した記録は5冊現存し、明代の釣魚島の帰属に関する一次史料である。嘉靖十三年(1534年)の陳侃『使琉球録』には「釣魚嶼(現在の釣魚島、日本名・魚釣島)を過ぎ、黄毛嶼(現在の黄尾嶼、日本名・久場島)を過ぎ、赤嶼(現在の赤尾嶼、日本名・大正島)を過ぎる」「古米山が見えた。これは琉球に属する」との記述があり、中国と琉球国の境界が古米山であったことがわかる。明代の文献で古米山は姑米山とも記され、現在の久米島のことである。陳侃は当時船上の琉球人が古米山を見て故郷についたと思ったことを記録しており、これは古米山からがようやく琉球の領域であったことを十分に説明するものだ。嘉靖四十一年(1562年)の郭汝霖『重編使琉球録』は「赤嶼とは、琉球地方を界する山である」と記しており,赤尾嶼(日本名・大正島)が琉球と境界を接する場所、つまり中国・琉球両国の境界であったことを指摘し、釣魚島を含め赤尾嶼以近が明朝の領土だったことを裏付けている。万暦七年(1579年)の蕭崇業、謝傑『使琉球録』は中国・琉球両国間の境界を改めて記している。『琉球録撮要補遺』に見られる「去由滄水入黒水、帰由黒水入滄水」は、沖縄トラフに関する最古の記述である。万暦三十年(1602年)の夏子陽『使琉球録』の記述「且水離黒入滄、必是中国之界」は姑米山と赤尾嶼の間の黒水溝が中国・琉球間の自然の境界線であったことを裏付けるものであり、崇禎六年(1633年)の胡靖『琉球記』は姑米山が琉球の国境であることを改めて明確に示している。
清朝の冊封使も多くの記録を残している。その主なものである1663年の張学礼『使琉球記』、1683年の汪楫『使琉球雑録』、1719年の徐葆光『中山伝信録』、1756年の周煌『琉球国志略』、1800年の李鼎元『使琉球記』、1808年の齊鯤、費錫章『続琉球国志略』等は1つの例外もなく、釣魚島等の島嶼が中国に属することを示している。
釣魚島が中国に帰属することは、明・清の時代にはすでに東アジアの国際社会で共通認識となっていた。明代の1471年に朝鮮人の申叔舟が著した『海東諸国紀』にある琉球36島図、清代の徐葆光『中山伝信録』にある中国・琉球双方の話し合いを経て作成された『琉球三十六島図』には、いずれも釣魚島等の島嶼の痕跡がない。琉球王国最初の正史『中山世鑑』(1650年)は陳侃『使琉球録』の釣魚島等の島嶼に関する記述を全文転載し、琉球王室の『歴代宝案』にも釣魚島等の島嶼の名称は載っていない。これらは琉球人も釣魚島等の島嶼を自国の領土と見なしていなかったことを物語っている。1721年に日本の新井白石が著した『南島志』の琉球36島に関する記述は琉球国の領域及びその附属島嶼の境界を反映するものだが、釣魚島等の島嶼は含まれていない。
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