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人民日報:明・清の文献から見る釣魚島の帰属

 

地名は今日に生きる歴史の証人だ。明代の文献において釣魚島(日本名・尖閣諸島)は「釣魚台」とも記されるが、より多いのは「釣魚嶼」だ。「嶼」とは小さな島のことであり、「島嶼」と同義である。知識の系譜上、釣魚島等の島嶼に関する明・清の文献は釣魚島が古来中国固有の領土であることの現存最古の、そして最も重要な歴史的根拠だ。釣魚島等の島嶼に関する最古の記述から着手し、跡をたどっていけば、明代以来釣魚島が中国固有の領土であったとの史実を明らかにし、東中国海の海洋領域形成の歴史的軌跡を証明することができる。日本政府は史実を無視し、釣魚島は「無主の地」だったと言っている。だが実際には、人の居住に適さない無人島イコール「無主の地」ではない。史実を整理し、明らかにして初めて、根源から正し、日本のいわゆる「発見」「無主地先占」の主張に力強い回答を与えることが可能になるとわれわれは考える。(文:万明・中国社会科学院歴史研究所研究員)

一、 釣魚島は中国人が最も早く発見、命名、利用した

古来、中国沿海の古人は海洋と密接に結びついてきた。浙江省蕭山跨湖橋の「中華最古の舟」の発見は、早くも8000年前には中国の古人が東中国海で航海を始めていたことを証明している。古代中国の航海の記録、いわゆる「舟子相伝の秘伝本」、後に言う「針本」は航海活動に伴い誕生し、代々伝えられた。現在のところ、こうした航海記録は最古で明代にまで遡る。

釣魚島等の島嶼について記述した最古の文献は1403年の『順風相送』の明写本と一般に考えられている。だが実はもっと古くまで遡るべきだ。つまり『三十六姓所伝針本』である。

陳佳栄氏の最近の指摘によると、『三十六姓所伝針本』は琉球大学図書館蔵の琉球人・程順則の『指南広義』に見られる(「清琉球程順則〈指南広義〉」、香港『国学新視野』季刊、2012年夏季号)。1708年編纂のこの航海専門書の中の「針路条記」は計14本の「針路」を書き写している。出典は2つあり、1つは『封舟針簿』の4本で、うち3本に「釣魚台」の名を注し、説明は康煕癸亥年(康煕二十二年、1683年)に冊封使団から伝えられた『航海針法』に基づいているが、これは明代永楽元年の鄭和等の記録が基だ。もう1つは『三十六姓所伝針本』で計10本。このうち4本は「釣魚台」の名を直接記している。

『三十六姓所伝針本』は三十六姓が継承し、書き写してきた航海「針本」だ。では三十六姓はいつ頃に端を発するのか?『明会典』には洪武二十五年(1392年)に明の太祖が福建三十六姓を琉球に下賜したとの明確な記述がある(「二十五年、(琉球)中山王遣子姪入国学。以其国往来朝貢、賜閩人三十六姓善操舟者」)。このことからわれわれは、釣魚島について記述した明代の最も古い記録は従来考えられてきた永楽元年(1403年)よりもさらに古く、洪武年間まで遡ることができると考える。

『三十六姓所伝針本』発見の意義は、中国の航海の実践に端を発するこうした写本の歴史の長さの強調にある。賜姓が行なわれた1390年代が『三十六姓所伝針本』の下限ということができる。では上限はいつかまで遡ることができるか?「針路」という言葉の形成時期から見ると、中国古代四大発明の1つである方位磁針は、まず中国人が北宋年間に航海に用いた。徐兢『宣和奉使高麗図経』は船隊が「指南浮針」を使用したとの明確な記述がある。「針路」という言葉が誕生し、「針本」が転写されるようになったのは、この頃以降のはずだ。したがって、中国の航海者が釣魚島を最も早く発見し、航海の目印として命名し、利用した歴史は、最も早くて方位磁針を発明して航海に用い、針路が出現した北宋初頭の11-12世紀まで遡ることができるかもしれない。また、下述の明朝洪武年間初頭の琉球への使臣派遣と明朝水軍の「琉球大洋」視察の文献記述と合わせると、最も遅くて1370年代となろう。

針本は中国人が釣魚島を最も早く発見、命名、使用したことの重要な歴史的根拠だ。したがって、日本人・古賀辰四郎による1884年の同島「発見」より中国は少なくとも500年も早いのである。

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