小林寛澄さんはこう振り返る。「75年前、私は戦場で銃口を八路軍に向けた日本兵だった。それなのに、八路軍の捕虜になった時、八路軍は私を敵として扱わなかったばかりか、十分な自由と平等を与え、友人や兄弟、同志として接してくれ、無知な私の目を本当の意味で覚ましてくれた」。
9月1日、中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典出席のため北京に向かう小林寛澄さん(中央)。東京羽田国際空港にて撮影。(小林陽吉さん提供)
小林さんの話では、八路軍の行軍に従って移動する途中、小林さんは多くの中国の村が日本軍によって焼かれ、無数の村民が日本軍に殺されるのを目にして、内心慚愧の念に堪えなかったという。小林さんは徐々に、日本帝国主義が中国に対して発動したのは侵略戦争だったと思うようになっていった。
1941年9月18日、小林さんは正式に八路軍の一員となった。八路軍に加わった後、日本軍に対する反戦宣伝工作に積極的に加わり、反戦ビラの配布、標語、電話などの方式で武器を手放して投降するよう日本兵に呼びかけた。時には生命の危険を冒して日本軍の拠点近くまで行き、直接大声で呼びかけることもあった。山東軍区政治部の舒同主任の紹介で、小林さんは共産党に入党し、外国籍中国共産党員となった。
小林寛澄さんはかつてこう語っている。「八路軍の捕虜になったあの日から、それまでの自分はいなくなり、中国人がくれた『日本八路』という新しい自分になった。私はそれを一生誇りに思う」。
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