Imprimer cet article

Commenter cet article

北京週報>>中国と日本  
元八路軍日本人兵士・小林清さん「死して中国の魂に」

 

八路軍に加わり、何度も功を立てる 

1941年秋、小林清さんは自ら志願して八路軍に加わり、「日本八路」(八路軍に参加した日本人兵士のこと)となった。1942年、八路の支持の下、小林清さんは「在日本人反同盟膠支部」の立ち上げに加わり、副支部長に任命された

 

小林清さんが中国語で書いた『私の思想反省』。山東抗日根拠地『大衆報』に掲載された。(小林陽吉さん提供)

 

小林陽吉さんは言う。「日本軍内部の状況と日本兵の考え方や生活習慣を熟知していた父の仕事は、主に日本軍に対する宣伝と呼びかけだった。夜、トーチカから100メートル、200メートルのところまで行き、ブリキ製のメガホンで日本軍に向かって呼びかける。内容は、『君たちがやっているのは正争ではない。日本の国主義のために命をかけるのはやめろ』というものだった。幾度にもわたる闘の中で、父の呼びかけに応じて多くの日本兵が投降し、敵の闘力を削いだ」。 

小林清さんは八路軍に加わっていた間、砲火を冒して幾度も前線へ行って、日本軍に対する宣伝や呼びかけを行い、日本軍の意を削ぎ、何度も功を立て、所在部隊から表彰された。 

1944年夏、小林清さんは中国語で『私の思想反省』という文章を書き、山抗日根拠地の『大衆』で表した。小林さんはこの文章で日本の侵略発動という犯罪行為を暴き、厳しく批判した。「父は積極的に仕事に取り組んだため、優れた業績を残した。父の思想反省は苦難に満ちた抗日戦争の最中にある中国の民を大いに励ました。父は勇敢で粘り強く、中国人民と八路軍に対して忠誠を尽くした。父の名声は抗日根拠地全体にとどろいた」。小林陽吉さんは誇らしげにこう語った。 

「1945年8月下旬、八路軍は青島周辺防衛のための駐屯軍と即墨などから青島に撤退してきた一部の日本軍、200名余りの行く手を遮った。彼らは投降せず、青島に戻って国民党軍を武装解除させようとしたが、父の思想工作により、最後には説得されて八路軍に投降した

   前のページへ   1   2   3   4   次のページへ  

查查日语在线翻译
查查日语在线翻译: