■ひとときの別れが永遠の別れに
甘く幸せな時は、長くは続かないものだ。1953年、溝脇さんは湖北省襄陽市軍区病院に転勤となった。羊楼洞部隊療養所を離れる当日の朝、溝脇さんは花が刺繍されたハンカチや枕カバー、絵を描いた手紙を杜さんの枕の下に入れた。
1954年の後半、溝脇さんは襄陽市から武漢の東湖療養所に転勤となった。この頃、杜さんの病状はさらに深刻になっており、一方、溝脇さんも日本の家族から帰国するように催促されていた。溝脇さんは、杜さんに手紙を書いて送った。「父や兄を戦争で亡くした後、3人の娘を抱えて苦しい日々を送っている母親がずっと私の帰りを待っている。でもあなたのことが心配で、帰国したくない」。
手紙を受け取った杜さんは、心が重くなった。愛する女性を失いたくはないが、愛する人のためにも利己的であってはならないと思った。結局、杜さんは、次のように手紙を書いて溝脇さんに送った。「あなたの幸せと家族のためにも、帰国するべきだ」。
1955年、溝脇さんは日本に帰国することを決意した。すでに自分では歩けない状態になっていた杜さんはタンカーで運ばれ、武漢の埠頭で愛する人との別れを惜しんだ。しかし、これが永遠の別れになるとは2人とも想像していなかった。
帰国後、2人は離れ離れの日々の中で募る想いを手紙にしたため、送り合った。しかし、1956年、溝脇さんが武漢を離れた翌年に、杜さんは病状が悪化し、33歳の若さでこの世を去った。
■愛と約束を守り続けた一生
ひとときの別れのはずが、永遠の別れになってしまった溝脇さんは中国での愛の日々を忘れることができなかった。杜さんとの間のさまざまな思い出を振り返りながら、一生をこの愛に捧げ、1人で生きていくことを選んだ。
1980年代に日本に留学した杜さんの姪、欧陽蔚怡さんは、溝脇さんと一緒に1年間暮らしたことがある。欧陽さんによると、杜さんが病気で亡くなったことを知ってから、溝脇さんは家の客間に杜さんの写真を飾り、毎日ご飯やお茶、花を供えていたという。命日には、特別にお粥を作って供えた。亡くなるまでの最後の日々、杜さんがお粥しか食べられなかったと聞いたからだ。
溝脇さんはこれまで杜さんとの約束を忠実に守り続けてきた。3つの約束とは、(1)日本帰国後、日本共産党に入ること(2)医療現場で働き続けること(3)中日間の国交回復後、再び中国の地を訪れること、だ。
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