このような国民性には恐るべきものがある。ファシスト側にあって同じく敗戦国となったドイツでは、ナチスの犯罪の証拠を世界から集める専門の係が今でも置かれ、謝罪と補償の努力が尽くされている。かつての首相のウィリー・ブラントがユダヤ人犠牲者の記念碑の前で跪いたことは世界のニュースとなった。だが南京の犠牲者30万人は70年余りが過ぎた今も、日本の政治家の言い逃れを聞き続けなければならないのである。
「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」。人類を襲った悲惨を前に、哲学者アドルノが語ったこの言葉は、この時期の苦難の歴史に対する西洋世界の眼差しを示す古典的反省として知られる。さらにノーベル賞作家のギュンター・グラスは、「アウシュヴィッツ以降の創作は、詩であれ散文であれ、歴史を覚えておくため、不幸の再演を防ぐため、歴史を終わらせるためというあり方でしかあり得ない」としている。
「南京大虐殺以降」はどうだろうか。詩を書くことは同様に野蛮である。中国人の心の中で受け止めきれない重さを持つからだ。だが記憶は伝えなければならない。私たちが伝えていくべき記憶は、観点でも主張でもない。一枚一枚の写真、一件一件の文書、一本一本の映像である。事実を前に観点は余計だ。
もしも世界にこうした記憶を残さなければ、未来の人々は、これら30万のこの地を生きた者たちを語るすべをなくすだろう。真実の記憶を残しておかなければ、こうした殺戮がこれからの世界を害することをいかに防ぐことができるだろうか。
日本の一部の人々が恐れるこの時期の記憶は、その記憶が存在しないことを示してはいない。日本がその国民性においてこの記憶を回避しようとすることは、私たちがこうした無理な要求に耳を傾けるほどの善良さを持ち合わせなければならないことを意味してはいない。(編集MA)
「人民網日本語版」2014年6月24日
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